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幻想にさよならを  作者: 猪西
第一章 見習い編
17/24

17真犯人


「――あ、ハルくん、おかえりなさーい!」


 ベルダン探偵事務所の重い扉を開けた瞬間、緊張感の欠片もない明るい声がハルを迎え入れた。

 声をかけてきたのは、テーブルに突っ伏してガタガタと震えているフィリップだ。その横には、無表情のまま巨大なハンマーをメンテナンスしている小柄な少女、メイが座っていた。


「……ハル、助けてくれ……! メイが、メイがまた『実験台になれ』って……呪い付きの防弾ベストなんて着られるかよぉ!」


フィリップが涙目でハルにしがみついてくる。ハルが視線を向けると、メイは一瞬だけハルと目を合わせ、それからすぐに手元の作業に視線を落とした。彼女は無言のまま、コクリと小さく首を傾げる。


「……これ、いいやつ。ハル、使う……?」


 蚊の鳴くような、小さな声。メイは人付き合いが極端に苦手だが、その腕は超一流だ。ハルは苦笑いしながら、「今は大丈夫だよ、ありがとう」と答えた。メイは少しだけ残念そうに、また無言でハンマーを磨き始めた。


「おっ、ハル。いいところに。新作の『スタミナ増強肉団子』ができたぞ。食え」


 厨房から顔を出したライルが、山盛りの皿をテーブルにドンと置いた。強烈に食欲をそそる香りが広がる。フィリップが恐怖を忘れて手を伸ばそうとした瞬間、空中にパッと小さな「穴」が開き、そこから伸びた細い手が肉団子を一つ掠め取っていった。


「もぐもぐ……。ふむ、悪くない味ね」

 

何もない空間から、ツインテールの少女・セレスがひょっこりと姿を現した。彼女はハルを一見すると、不敵な笑みを浮かべる。


「ハル、顔色が戻ったわね。何をやらかしたら、あんなにアイリスを怒らせれるのかな?」


「……あはは、まあ、いろいろありました」


 他愛のない会話。メイが時折立てるカチカチという整備の音。フィリップの情けない悲鳴。あんなに凄惨な現場にいたのが嘘のように、事務所には温かな時間が流れていた。

 だが、その平穏は、部屋に入ってきたアイリスのたった一言で凍りついた。


「――ハル、準備なさい。十一人目の『爆弾人間』が出たわ」


 ハルは持っていたフォークを落とした。


 「……え? どういうことですか、アイリスさん。犯人のアムネリスは、あの地下で捕まったはずじゃ……」


「ええ、捕まったわ。でも事情聴取で判明したのだけど。あの男は院長を脅して『魔獣の研究』に没頭していただけで、人間爆弾事件については一切関与していない。彼はただ、混乱に乗じて自分の実験場を広げていただけの、別件の狂人よ」


 アイリスの言葉が、冷水のようにハルの脳を冷やした。

 まだ、終わっていない。あの地獄のような事件の真犯人は、まだ野放しなのだ。


「……行きましょう。セレス、現場まで『ゲート』を」


「いいわよアイリス。……でもハル、あんたは別。私を動かすなら、後で見返りをたっぷりもらうから。覚悟しなさいよ?」

 

 セレスはアイリスには従順だが、ハルには意地悪く笑って条件を突きつけた。ハルは「わかったよ」と力なく頷き、セレスが開いた空間の歪みへと飛び込んだ。


 現場は、王都外縁の人気の少ない通りだった。

 ゲートを抜けた先に広がっていたのは、言葉を失うような光景だった。

 そこには「死体」と呼べるものは存在しなかった。

 石畳の上には、黒ずんだ赤褐色の液体が不規則な模様を描いて飛び散り、街灯の柱には肉片とも衣服の燃えカスともつかない、繊維状の何かがこびりついている。


 爆風で周囲の窓ガラスは粉々に砕け散っていた。鼻を突くのは、焦げたタンパク質の嫌な臭いと、微かな硫黄の香り。

 人間が一人、その場から「消滅」したのだという事実だけが、無残な痕跡として刻まれていた。

 

 「……酷すぎる」


 アイリスが顔をしからめ、現場を封鎖している騎士たちと話し始めた。

 ハルは震える足をおさせ、地面に這いつくばるようにして周囲を調べた。爆発した瞬間のエネルギーがどれほどだったのか、近くの壁は熱でわずかに変色している。

 

 その時だ。

 現場から数メートル離れた茂みの影で、キラリと光るものが見えた。

 ハルは吸い寄せられるように近づき、それを拾い上げた。

 それは、小さな「金属製の十字架」だった。

 血を浴びて黒ずんでいるが、その独特の彫刻に見覚えがあった。リリィちゃんが握りしめていたものと、全く同じデザインだ。


(……そんな、まさか……嘘だろ……)

 

 ハルの頭の中で、パズルが音を立てて組み上がっていく。

 あの狂人が犯人じゃないなら、なぜ被害者は全員病院に関係していたんだ。

 爆発した被害者たちが通っていた病院に、誰が「ボランティア」として毎日通っていたか。

 そして、被害者が爆発する直前、誰が彼らの『最後の肖像画』を描いていたのか。


 ハルはその十字架を、拳が白くなるほど強く握りしめた。

 怒りで視界が真っ赤に染まりかける。だが、今度は「暴走」ではなかった。心臓が痛いほど冷たくなり、静かな憤怒が全身を支配していく。


「アイリスさん」


 騎士と話し終えたアイリスが振り返る。そこには、今まで見たこともないような、暗く深い目を模したハルが立っていた。


「……話があります。この事件の、本当の犯人について」

 

 時刻は深夜。

 月明かりだけが差し込む静寂の教会で、一人の男が祭壇に向かって跪いていた。

 神父は、穏やかな顔で祈りを捧げている。


 ギィィ……

 重い木製のドアが開き、夜風と共に足音が響いた。

 神父は祈りを止め、ゆっくりと後ろを振り返る。


 「……こんな夜更けに、どうされましたか」

「おや、ハルさんじゃないですか、今回はどのようなご要件で」


 そこには、十字架を握りしめ、肩を震わせるハルが立っていた。


「……神父さん。一つだけ、答えてください」


 ハルの声は、絞り出すように低かった。

 信じていた人を疑わなければならない悲しみと、それを上回る激しい怒りに、奥歯が鳴る。


「⋯⋯なぜリリィちゃんを爆弾にした?」


 神父の微笑みが、わずかに深くなった。その瞳の奥には、慈愛など一欠片もない、虚無と狂気が渦巻いていた。


「……大義のためですよ」

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