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幻想にさよならを  作者: 猪西
第一章 見習い編
16/24

16包帯の騎士


地下の淀んだ空気の中に、ハルの荒い呼吸音だけが響いていた。


アイリスが院長の男を制圧したのを確認すると、ハルは糸が切れた人形のように倒れ込みそうになる体を必死に支え、床に横たわるテーナのもとへと這うようにして駆け寄った。


「テーナ! テーナ、しっかりしてくれ!」

 

ハルが彼女の肩を掴んで揺さぶると、テーナの長いまつ毛が微かに震え、重たげなまぶたがゆっくりと持ち上がった。


 「……ん、……ハル? ここは……」


 焦点の定まらない目で辺りを見回していたテーナだったが、目の前に必死な形相のハルがいることに気づくと、呆然とした表情を浮かべた。ハルは彼女が生きている、その事実にただただ安堵し、気づけば彼女の細い体を力いっぱい抱きしめていた。


 「よかった……。本当に、無事でよかった……!」


「なっ、ちょっ……! ちょっと何してるのよ! 離しなさい、このバカ!」

 

 テーナは顔を真っ赤にして慌てふためき、弱々しい力でハルの胸を押し返した。


「大丈夫だから! もう、恥ずかしいじゃない……!」


 突き放されたハルは「あ、ごめん」と少し照れくさそうに頭を掻いたが、その表情は心からの喜びに満ちていた。


 一方で、アイリスはメスを叩き落とされてうずくまる男の前に立ち、氷のような視線を見下ろしていた。


「さて、不審者さん。今の状況、説明してもらえるかしら?」


「あ……ああ、完璧だったのに……私の自信作が……神への階段が……」

 

 男はブツブツと意味の分からない言葉を並べ、アイリスの問いかけには一切答えようとしない。その虚ろな瞳には、もはや対話の余地など残っていないようだった。


「……時間の無駄ね」


 男はブツブツと意味の分からない言葉を並べ、アイリスの問いかけには一切答えようとしない。その虚ろな瞳には、もはや対話の余地など残っていないようだった。


「……時間の無駄ね」


 アイリスは迷うことなく、ステッキの柄で男の項を正確に打ち抜いた。男は短い声を漏らして、そのままガクンと意識を失った。


「ハル、一旦外に出るわよ」


「了解です」

 

 ハルが立ち上がろうとした、その時だった。地下室へと続く通路から、重い足音が響いてきた。


「おいおい、派手にやったもんだな。病院全体が揺れたぞ」

 

 現れたのは、頭に包帯をぐるぐる巻きにした、あの陽気な男――ヘクトスだった。

 

 「ヘクトスさん!? どうしてここに……動いちゃダメですよ、そんな大怪我なのに!」

 

 アイリスが鋭い目つきで仕込み刀を構え、ヘクトスの前に立ちふさがった。


「止まりなさい。悪いけれど、ここから先は一般人の立ち入りを禁じているわ。すぐに病室へ戻って」


 「一般人、か。手厳しいな。……それとも、包帯のせいで昔の上司の顔も忘れちまったか? アイリス」


 ハルは驚いて声を上げた。


「……何ですって?」

 

 アイリスの眉が不機嫌そうに跳ね上がる。冗談を言っている状況ではない、と彼女が切り捨てようとした瞬間、ヘクトスが少し笑い、自らの頭に巻かれた包帯を大胆に解き始めた。


「ハハハ。何がおかしいって……かつての部下に『一般人』呼ばわりされる日が来るとは思わなかったぜ」


 包帯が床に落ちる。そこから現れたのは、ハルが想像していた大怪我の顔ではなく、彫りの深い、端正な顔立ちをした壮年の男の素顔だった。


 「嘘……まさか、トクス⋯隊長……!?」


 アイリスの持つ仕込み刀が、驚きでわずかに震えた。ハルは目を点にさせる。


 「トクス……隊長? ヘクトスさん、じゃなくて、トクス?」


「ああ。本名はトクス・フォン・バルド。騎士団、第三部隊の隊長だ。……久しぶりだな、アイリス。いや、『虹の剣姫』様と呼んだ方がいいか?」


 「……やめてください隊長」


 アイリスが気まずそうに視線を逸らす。ハルは「虹の剣姫!?」「隊長!?」と、次々に飛び出す単語に処理が追いつかない。

 

 すると、トクスの後ろからガシャガシャと鎧の音を立てて、騎士団たちが雪崩れ込んできた。


 「隊長、準備が整いました!」


「ああ、ご苦労。……ハルにアイリス、話はあとだ。まずはそのお嬢さんとハルの手当てが先だ。それから、そこの薄汚いネズミを拘束しろ」


 トクスの的確な指示で、混乱していた現場が瞬時に統制されていく。トクスはアイリスに歩み寄り、肩を叩いた。


「積もる話は地上でな、アイリス」


 アイリスは何も言わず、ただ静かに頷いた。ハルはその横顔に、今までに見たことのない「少女のような戸惑い」を見た気がした。


 事件の後始末は迅速だった。

 テーナは念のために検査を受けたが、幸いにも薬を嗅がされて眠らされていただけで、目立った怪我はなかった。安心したのか、彼女は「ありがと」と捨て台詞を吐いて、すぐに眠りについた。

 

 ハルも手当てを終えた後、病院の院長室へと呼び出された。

 そこにはアイリス、トクス、そしてやつれた顔をした院長が座っていた。


「よお、ハル。ケガは大丈夫か?」

 

 トクスがいつもの陽気さで手を挙げる。ハルは「あ、はい……」と、今まで通り接していいのか迷いながら返事をした。隣のアイリスは、置物のように黙り込んでいて、空気がひどく気まずい。

 

 やがて、院長が震える声で語り出した。


「……本当に、申し訳ない。数ヶ月前、あのアムネリスという男が突然現れ、私の家族と患者たちの命を人質に取ったのです」

 

 院長の話によれば、あの狂った男――アムネリスは、最初は研究施設と実験動物の提供だけを要求してきたという。院長は患者を守るためにやむなく従ったが、最近になってついにアムネリスは「人間の被験者」を要求し始めた。

 

 院長は必死に抵抗したが、地下室の入り口を見つけてしまったテーナを口封じのために捕らえて⋯⋯、もう限界だったという。


「……秘密を守るために、彼女をあんな目に。私は、医者失格です」

 

 院長は涙を流しながら、騎士たちに連れられて退室していった。罪は罪だが、彼もまた被害者であったことは間違いなかった。

 

 部屋に残った三人の間に、沈黙が流れる。トクスがニヤリと笑ってハルを見た。


「しかし驚いたぜ。隣のベッドの兄ちゃんが、まさかアイリスの助手……探偵だったなんてな。いい潜入だったぞ」


「……実は、記憶喪失っていうのも潜入のための嘘だったんです。騙しててすみません、トクスさん」


「ハハハ! そりゃ一本取られたな。全くだ、いい役者だぜ、お前は」

 

 トクスは楽しそうに笑い、それからアイリスに視線を移した。


「アイリス。お前も、探偵なんて柄じゃないと思ってたが、案外いい顔をしてるじゃないか。元気そうで安心したよ」


「……隊長もお元気そうで、何よりです」


 アイリスは深く頭を下げた。トクスは「じゃあな、ハル。次は事務所に遊びに行かせてもらうぜ」と言い残し、颯爽と部屋を出て行った。

 

 パタン、と扉が閉まる。

 院長室には、ハルとアイリスの二人だけが残された。


「…………」

 

 アイリスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとハルの方を向いた。その瞳には、先ほどまでの感慨深げな様子は微塵もなく、煮えたぎるような「怒り」が宿っていた。


「……さて。ハル」


「ひ、はいっ!」


「どうして、私の応援を待たずに無鉄砲に突っ込んだのか。そして、どうしてあんなボロボロになるまで無茶をしたのか。……じっくり、たっぷり、説明してもらえるかしら?」

 

 アイリスが指の骨をポキリと鳴らす。その笑顔は、地下の化け物よりも何倍も恐ろしかった。


 「今日は寝させないから、覚悟しなさい」


「は、はいぃぃ……っ!」


 ハルの悲鳴が、夜の病院に響き渡った。

 事件は解決したが、ハルにとっての本当の地獄は、ここから始まるようだった。


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