14壁の向こう側
窓から差し込む朝の光が、消毒液の染みついた白いシーツを眩しく照らしていた。
ハルがまどろみから目を覚まし、真っ先に視線を向けたのは左斜め前のベッドだった。
「……いない」
そこにあるはずのボサボサの茶髪も、分厚い本の山もない。ただ、シーツが綺麗に整えられた無機質なベッドだけがそこにあった。昨夜、不敵な笑みを浮かべて「約束」だと言い放った少女、テーナの姿が消えていた。
「おい、兄ちゃん。飯、冷めちまうぞ」
隣のベッドで、相変わらず包帯をぐるぐる巻きにしたヘクトスが、器用にスプーンを口に運んでいた。
「ヘクトスさん、テーナさんがどこに行ったか知りませんか?」
「んあ? テーナの嬢ちゃんか。さあな……俺が起きた時にはもういなかったぜ。あの嬢ちゃん、たまにふらっといなくなるからな。便所か散歩じゃねえのか?」
ヘクトスは呑気に答え、またスープを啜り始めた。だが、ハルの胸を騒がせる予感は、そんな楽観的なものではなかった。彼女は昨日、ハルの正体を見抜き、強引に調査に加わると宣言したばかりだ。
(まさか……一人で院長の秘密を探りに!?)
ハルの脳裏に、最悪のシナリオが浮かぶ。もし彼女が院長の「隠し通路」を見つけ出し、不用意に踏み込んでいたら。もし、人間を爆弾に変えるような狂気の中に触れてしまっていたら。
「っ、まずい……!」
ハルは朝食を一口もつけぬまま、跳ねるようにベッドを飛び出した。
「おい、兄ちゃん! どこ行くんだよ!」
ヘクトスの呼びかけを背中で聞き流し、ハルは病室を飛び出した。
廊下を走りながら、ハルは必死に思考を巡らせる。彼女の目的は「面白いこと」だと言っていた。だとしたら、昨日ハルが話した院長の噂や、地下の音の現場に向かった可能性が高い。
ロビー、中庭、図書室、昨日の教会……。心当たりのある場所を片っ端から駆け抜けるが、どこにもあのボサボサ頭の少女は見当たらない。
(落ち着け、ハル。アイリスさんへ連絡……いや、まだ確証がない。俺が騒ぎを大きくして潜入がバレたら……。でも、彼女に何かあったら!)
焦燥感が心臓を強く叩く。一時間ほど病院内を彷徨い、息を切らせて一度病室に戻った。せめて彼女の荷物が残っているか確認しようとした、その時だった。
「あら。おかえりなさい、ハル。随分と汗をかいているけどどうしたの?」
ベッドの上に座り、何食わぬ顔でページをめくっているテーナがいた。
ハルは呆然と立ち尽くし、膝から崩れ落ちそうになった。
「テーナ……さん……。無事だったのか……良かった……」
「ええ? 何よ、その幽霊でも見たような顔。私何かした?」
テーナは少し引いたような表情でハルを見つめていたが、ハルの必死すぎる形相を見て、ふっと小さく笑った。
「……もしかして。あなた、私のこと心配して走り回ってたの? 変わった人ね。ありがと」
その時、ハルは初めて、テーナが自分と同じ年頃の、ただの「女の子」なのだと強く実感した。いつもの理屈っぽさや冷たさの裏にある、少し照れたような、年相応の柔らかな表情。
「……心配するよ。昨日あんな話をしたばかりなんだから。で、どこに行ってたんだ?」
「決まっているじゃない。聞き込みよ。あなたの代わりに私が動いてあげたの」
テーナが語った情報は、昨日ハルが集めたものと似通っていた。「真夜中に廊下を歩く長い影を見た」「給湯室から赤ん坊の泣き声のような悲鳴が聞こえた」といった、オカルトめいた噂話ばかりだ。
「いい、テーナさん。協力してくれるのは嬉しいけど、無茶はしないでくれ。これは遊びじゃないんだから」
「分かったわよ」
その日はその後、二人で情報の整理を行ったが、犯人像に繋がる決定的な証拠は出なかった。ヘクトスにダル絡みされ、テーナが本を読み、ハルが天井を見つめる。そんな、奇妙に平穏な一日が終わった。
翌朝。
不気味なほどの静寂の中で、ハルは目を覚ました。
ヘクトスは相変わらず包帯の中で重低音のいびきをかいている。そして、案の定というべきか、テーナのベッドはまたしても空だった。
(また聞き込みか……。元気なもんだな)
ハルは少し苦笑いしながら、運ばれてきた 朝食を口にした。しばらくしてヘクトスが目を覚まし、目をこすりながらハルに挨拶をする。
「おはよぉ、兄ちゃん……。あれ、あの嬢ちゃんはまた散歩か?」
「……みたいですね。本当に、じっとしていられない人みたいですね」
だが、食事が終わっても、昼になっても、テーナは戻ってこなかった。
昨日とは違う、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。
(いくらなんでも遅すぎる。聞き込みにしても、もう三時間は経ってるぞ)
ハルは再び立ち上がった。
「ヘクトスさん、ちょっと心配なので探してきます」
「おう。あいつ、意外と迷子属性だったりしてな。気をつけて行けよ」
ハルは病院内を歩き出した。昨日訪れた場所を再度確認するが、やはりいない。看護師たちに聞いても「本を読んでいる少女なら病室にいるはずですが」と首を振られるだけだ。
(……おかしい。いったん病室に戻るべきか?)
懐中時計に手をかけようとしたその時、ハルは廊下の隅に、不自然に落ちている「何か」を見つけた。
それは、テーナがいつも大切に抱えていた、あの古びた本だった。
「これ……テーナさんの……!」
本は、人気のない一階の奥、現在は使われていない古い備品倉庫へと続く廊下の入り口に落ちていた。
ハルは心臓の鼓動を耳元で聞きながら、暗い廊下へと足を踏み入れた。
空気の温度が、一段階下がったような気がした。
「テーナさん! テーナさん、いるのか!?」
声あげて呼びかける。
やがて、廊下の突き当たりまで辿り着いた。そこは行き止まりだった。埃の積もった冷たい石壁が行く手を阻んでいる。
だが、その壁の目の前で、ハルは息を呑んだ。
埃の舞う床に、「靴の跡」が残っている。
それは、壁に向かって歩み、そして――壁の手前で、唐突に途切れていた。
「……壁に、消えた?」
ハルは震える手で壁に触れた。アイリスの手紙にあった言葉が蘇る。『院長が壁に入っていく姿を見た』。
冷たい感触。ただの石の壁だ。だが、テーナの痕跡は確かにここで終わっている。
「テーナさん!! テーナ!!」
ハルが壁を叩き、必死に呼びかけたその時。
地面の底から、ズズズ……と、巨大な岩が擦れるような、重く低い音が響いてきた。
その音は、まるで巨大な怪物の胎動のように、ハルの足裏を激しく震わせた。
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