12包帯の男と本の女
「……じゃあ、お大事にね。ハルさん」
ナース服に身を包んだアイリスは、そう事務的に告げると、ハルの返事を待たずに病室を去っていった。盆に乗せられた簡素な病院食からは、ほんのりと湯気が立ち上っている。
アイリスが扉を閉めた瞬間、ハルは大きく肩の力を抜いた。アイリスがナースキャップの下から放っていた「変なこと言ったら殺すわよ」という無言の圧力は、記憶喪失を装うハルにとって、どんな拷問よりも心臓に悪かった。
(……潜入って、こんなに胃が痛いもんなのか)
ハルが箸を手に取り、まずは一口、煮物を口に運ぼうとした時だった。
「よう、兄ちゃん。さっきの看護師さん、美人だけどちょっと怖かったな」
不意に横から声をかけられ、ハルは「うわっ!」と短く叫んで箸を落としそうになった。
振り向くと、隣のベッドの住人が身を起こしていた。ハルは絶句した。そこにいたのは、頭から顎にかけて、真っ白な包帯をぐるぐる巻きにされた男だった。目と口の部分だけが辛うじて露出しているが、その下にある顔面がどれほどの惨状なのか、想像するだけでハルは顔を引きつらせた。
「あ、あの……大丈夫ですか、その顔」
「ああ? 大丈夫大丈夫! これな、後輩のやつと模擬戦したら、ちょっと手ひどくやられちまってよ。わはは、笑い事じゃねえんだけどな!」
男は豪快に笑ったが、その振動で傷が痛むのか、すぐに「いてて……」と頬を押さえた。
「悪い、自己紹介が遅れたな。俺の名前はヘクトス。この王国の騎士団に籍を置いてる。兄ちゃんの名前はハルってんだろ? ナースさんが呼んでるの聞こえたぜ。記憶喪失で大変だろうが、短い間、よろしく頼むな!」
ヘクトスは包帯越しにも分かるほどの陽気なオーラを放ち、ハルに片手を振った。
「よろしくお願いします、ヘクトスさん。……それにしても、その後輩の方は相当強いんですね」
「それがよ、その後輩は『精霊使い』でさ。しかも同時に二体も居てやがるんだよ。一言で言えば天才だな。俺なんか精霊に愛されなかった、ただ剣を振るしか脳のない騎士だってのによ。あんなことになるなら、模擬戦なんて引き受けなきゃよかったぜ、まったく!」
「……精霊?」
聞き慣れない単語に、ハルは思わず疑問を口に出した。ヘクトスは包帯から覗く目を丸くした。
「おいおい、兄ちゃん。精霊のことも忘れちまったのかい?」
「あ……あ、ええ。その、なんだか言葉は聞いたことがある気がするんですけど、はっきりとは……」
ハルは動揺を隠すように、曖昧に頭を掻いた。ヘクトスは「そりゃ重症だ」と気の毒そうに頷くと、講義を始めるように指を立てた。
「いいか? 精霊ってのは、物や人に宿る不思議な生き物だ。目に見えない、ただの魔力の塊みたいな精霊なら空気中に腐るほど漂ってる。その中でも、魔道具や人間に宿ることで形を成し、宿主に力を貸してくれる精霊が、俺たちにとっては最高の相棒になるわけだ。精霊が気に入った奴にくっつく、いわば魂の伴侶みたいなもんだな。俺の後輩は、それが二体もいて、さらに……」
「――あの、少しうるさいんだけど」
ヘクトスが身を乗り出して語り続けようとした瞬間、冷ややかな少女の声が割り込んだ。
ハルが左斜め前のベッドに視線を向けると、そこにはボサボサの茶髪を無造作に垂らした、眼鏡の少女がいた。彼女は両手で分厚い本を広げたまま、眼鏡の奥から鋭い視線をハルとヘクトスに向けていた。
「悪い悪い! つい話が楽しくなっちまってよ!」
ヘクトスが頭を掻いて謝るが、少女の氷のような表情は変わらない。
「まったく。うるさいのはその顔面の包帯だけにしてください。中身まで騒がしいと、病棟全体の知能指数が下がる気がします」
「うぐっ、手厳しいな……」
ヘクトールがシュンと肩を落とす。少女は呆れたように鼻を鳴らすと、今度はハルを冷たく見据えた。
「あなたも。記憶喪失だか何だか知りませんけど、公共の場であることを自覚してください。私の読書を邪魔しないで。集中できないので、静かに。……いいですね?」
「……ごめん。気をつけるよ」
ハルが素直に謝ると、彼女は「ふん」と短く吐き捨て、再び本の世界へと没頭し始めた。
横からヘクトールが、声を潜めてハルの耳元で囁いた。
「(なあに、気にするな。彼女はテーナ。俺より前からこの病院にいるらしいんだ。見ての通り、一日中本にかじりついてる、ちょっと変わった女だぜ)」
「聞こえていますけど。死にたいんですか?」
テーナがページをめくる手を止めずに、ピシャリと言い放った。ヘクトールは「すいませんでした!」と情けなく叫ぶと、そのまま布団を被って寝たふりを始めた。
病室に、束の間の静寂が訪れる。
ハルは冷めかけたご飯を食べ始めたが、ふと、トレイの隅にある小皿の裏に、ニ枚の紙片が張り付いていることに気づいた。
(……これ、アイリスさんか)
テーナが本に夢中で、ヘクトールがおそらく寝入っているのを確認し、ハルはこっそりとその手紙を開いた。
『私は看護師として、スタッフや施設の内部から爆破事件の不審点を洗う。お前は患者として、他の患者や見舞い客から情報を探れ。
この病院の地図も置いていく。怪しまれない範囲で歩き回れ。
何か掴んだら、人目のない場所へ移動し、例の懐中時計を使え。 ――アイリス』
もう一つの紙には、緻密に描かれた病院の平面図があった。
ハルは自分のポケットにある「懐中時計」をそっと指先で確認した。これは探偵事務所に入った際に支給された特殊な魔道具だ。一見するとアンティークな懐中時計だが、実は特定の周波数の魔力を通わせることで、離れた相手と音声で通信ができる。
(患者同士の聞き込みか……。まずは、どこから当たるべきか)
ハルは地図を頭に叩き込みながら、早足で食事を済ませた。
テーナは相変わらず本の迷宮に迷い込んでいる。ヘクトールのベッドからは小さないびきが聞こえてきた。
ハルは静かにベッドを抜け出し、音を立てないように病室の扉を開けた。テーナの視線がかすかに動いた気がしたが、彼女はハルがトイレにでも行くのだろうと思ったのか、声をかけることはなかった。
廊下に出たハルは、壁際に立って地図を見た。
入院患者がリラックスし、かつ自然に聞き込みができそうな場所。
「……ここか」
ハルの指が、地図の一角に止まった。
病院の2階。
ハルが向かったのは、白壁に囲まれた病院の中に建つ、小さな、ひっそりとした教会だった。
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