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第四十九話 君に奪われ、君に溺れる(2)

***


 定時の鐘が鳴ると同時に、ノートパソコンの画面を閉じる。足元に置いていた鞄を手に持って、「お先に失礼します!」と立ち上がった。


「おー、春日ちゃん。その調子で毎日定時に帰って欲しいところだね。お疲れ様」


 パソコンから顔を上げた皐月先輩が、からかうように笑う。「すいません、今日は……ちょっと……野暮用が……」と言葉を濁し、思わず視線を逸らしてしまった。無意識に鞄の持ち手を握りしめ、「お疲れさまです」と一礼して執務室を出る。


 定時早々仕事を切り上げた職員の波に呑まれながら、足早に庁舎を後にする。帰宅ラッシュの電車に揺られて、数駅。下車した駅は、夜の街の灯りが眩しかった。まだ少し時間があったので、改札を出る前に化粧室へ立ち寄った。


 鏡の前に立つと、仕事帰りのわたしがそこにいた。華やかさとは縁遠いけれど、今日だけは少しでも綺麗に見せたくて、明るめのブラウスを選んだ。だけど……やっぱり地味かな。ネックレスでも、つければよかった? メイクも、もう少しキラキラさせた方がよかったかもしれない。そんなことを考えながら崩れた髪を整えて、ゴムを巻き直す。ふとスマートフォンに視線を落とすと、約束の時間が近づいていた。


 改札を抜け、人の波の向こうに視線を巡らせる。すると、懐かしい顔と視線が交わった。相手もぱっと顔を綻ばせ、「おーい、美奈氏」と手を振ってくれる。


「若葉ちゃん……! 日菜子ちゃんと、冬子ちゃんも……わたしが最後だったね、ごめん」


「いんやー、まだ時間まで全然あるし、大丈夫っしょ。寄り道しても余裕で着くよ」


 若葉は昔と変わらない明るさで笑い、金色のボブヘアが照明を弾くようにきらめいた。大学生のときに初めてその髪を見たときは驚いたけれど、今ではすっかり似合っている。その横では、ふわふわの髪の毛を肩まで切り揃えた日菜子が昔のままの穏やかな笑顔を浮かべていて、冬子は髪をポニーテールに結び、ぱりっとスーツを着こなしている。四人で並んで歩くと、どこか懐かしくて、でも確かにもう大人になった自分たちを実感してしまう。


 雑談に花を咲かせながら、駅前の通りを歩いていく。目的地は、市内の四つ星ホテルだった。と言っても泊まるわけではなくて、用があるのはラウンジだ。ホテルのラウンジなんて、滅多に縁のない場所だ。それを思うだけで、胸の奥が少しだけ高鳴る。


 ガラス張りのエレベーターに乗り込んで、身体がゆっくりと上昇していく。透明な壁の外に広がる夜景が、街の灯りを宝石みたいに見せていた。最上階で扉が開くと、柔らかな照明と低いピアノの音が、別世界の空気を運んでくる。


 スタッフに案内されて足を踏み入れると、厚手の絨毯がヒールの音を吸い込んだ。窓際の席に通されて腰を下ろした瞬間、目の前の景色に息を呑む。全面ガラスの向こうに、港の灯が散りばめられている。遠くの海面には月の道が細く伸びて、街と海の境界が淡く滲んでいた。こんな眺めを見ながら、飲み物を選ぶなんて――。少しだけ迷って、メニューの中から無難にカシスオレンジを注文する。


 ――心臓の音が、さっきからほんの少しだけ速い。仕事の延長線上にある夜のはずなのに、今夜だけは、何かが違って見えた。


「……おい、若葉。こんなところで飲み過ぎるなよ」


 周囲に気を配りながら、表情を硬くした冬子が小声で釘を刺す。若葉はあっけらかんと笑って、「分かってるって。そういう柊氏こそ、泣かれたら困るから気をつけてねん」と茶化すように言いながら、テーブルの上で両手を組む。ほどなくしてグラスが運ばれてきて、四人で控えめに乾杯した。


「それにしても、こんなに素敵な場所に来られるなんて……美奈ちゃん、招待してくれてありがとう」


 日菜子が優しく微笑んで、ワイングラスを摘まむ。その指先には淡く色づいたマニキュア、伏し目に塗られたアイシャドウが、ラウンジの照明を受けて静かにきらめいている。その姿があまりに大人びていて、思わずどきりとしてしまう。慌てて視線を逸らし、手元のグラスに口をつけた。カシスの甘さが舌の上に広がり、アルコールの存在を一瞬忘れてしまうほど――相変わらず、ジュースみたいな味だった。


「ううん、わたしじゃなくて……カナデが、招待してくれて」


「すっごいよな、松波奏。こんなところで演奏するとか、洒落すぎじゃね?」


 目を細めて店内を眺め見た若葉の言葉に、皆が頷く。今夜、カナデはこのホテルのラウンジで演奏をする。家を出るとき、カナデは「音楽協会の仕事でさ、団長も出るんだって」と、なんてことなさそうに言っていたけれど……そんな風に、さらりと特別をやってのけるのが、カナデだった。


 グラスを傾けながら、話題は久しぶりの近況報告へと移る。日菜子は蒼と両親への挨拶を済ませたらしいし、若葉は完全在宅勤務で一度も会社に行っていない。冬子は、厳しい上司に苦労しているようだった。高校生の頃よりすっかり大人になった会話内容に頷いていると、ラウンジ全体の照明がふっと落ちた。ざわめきが静まり、視線が一方向へ集まる。あっと声にならない声を上げ、息が止まる。無意識に胸の前で握りしめていた右手は、じんわりと湿っていた。


 ステージの上に、カナデが立っていた。右手に金色のトランペットを携え、スポットライトに包まれたカナデの姿が、闇の中で静かに浮かび上がる。その後ろでは、ドレス姿の団長がグランドピアノの前に腰を下ろしていた。カナデのシルエットは、高校時代のまま細くてしなやか。けれど、今目の前にいる彼女は、わたしが知っている“カナデ”ではなかった。黒いジャケットに包まれた肩、舞台に馴染む立ち姿、そして手にした金色のトランペット――通称“ミナ2号”の青いピストンが、ひときわ強く光を跳ね返す。その一瞬で、胸の奥が、ぎゅっと熱く締めつけられる。客席を見るカナデの表情は少しだけ冷ややかで、それでいて、その奥底には確かに炎が揺れていた。


 息を吸い込む音が、ラウンジの隅々にまで届いた。その直後、トランペットの音が夜景に溶けていく。柔らかな旋律が、まるで港の灯りのようにじんわりと空間に染みわたっていく。


 高音は、月明かりを映した水面のさざ波みたいにきらきらと輝き、低音は、静かに海底を這うような深さで、わたしの胸をゆっくり満たしていく。


 音が、肌の内側をやさしく撫でていく。静かに、でも確かに――わたしは音に包まれていた。


 家でも、楽団でも何度も聴いてきたはずの音。だけど……仕事中のカナデの姿を見るのは、初めてだった。ステージの上では、わたしのカナデは「松波奏」という一人の演奏者になっていて、わたしだけが知っている笑顔も、少し拙い甘え方も、そんな影はどこにもなかった。大人びたカナデがあまりにも綺麗で、眩しくて、遠い。視線を逸らしたくなるのに、逸らせなかった。この音は――またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうような気がした。それでも、わたしは追いかけたい。どこまでだって、カナデの隣にいたいと思った。カナデのことを、もう死ぬまで離さないと決めたのだから。


 カナデの音が、わたしの胸を真っ直ぐに貫いてくる。熱が頬に上っていく。こんな想い、惚れ直すなんて軽い言葉じゃ足りなかった。わたしはきっと、まだまだ、カナデのことを知らなかったんだ。


 最後の一音が、夜の海へと吸い込まれた。静寂のあと、波のような拍手がステージに降り注ぐ。その中で、ふいにカナデの視線が、わたしを捉えた。


 一瞬だけ、時が止まる。彼女の唇の端が、そっと持ち上がる。それは、わたしだけが知っているカナデの顔だった。その瞬間、胸の奥にあたたかな波紋が広がっていく。思わず、笑ってしまった。


 だって、ずるいよ、カナデ。そんな顔をされたら――もう、どこにも逃げられない。


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