第四十九話 君に奪われ、君に溺れる(1)
マウスを握ったまま、無数の数字が並ぶ表計算ソフトの画面を見つめていた。数式が整然と並んでいるはずなのに、目に映るのはただの記号の列で、思考の輪郭がぼんやりと霞んでいく。前年度の書式をなぞるだけの単純作業なのに、なぜか集中できなかった。気づけばカーソルだけが、虚しくセルの上を滑っている。
そのとき、不意にカウンターから名前を呼ばれた。肩がわずかに跳ねて顔を向けると、馴染みの印刷会社の営業マンが笑顔で立っていた。わたしも慌てて笑みを返し、椅子を引いて立ち上がる。
「春日さん、いつもお世話になっております。ご注文いただいていたポスターが完成しましたので、本日納品に伺いました」
営業マンは台車から大きな段ボール箱を慎重に持ち上げ、次々と執務室の壁際に積み上げていく。想像よりも量があり、少し場所を取るな……と内心思いながら、わたしは納品書と請求書を受け取った。
「ありがとうございます。今日中に支払い処理をしますので、二週間以内にはお振り込みできるかと」
「承知いたしました、ありがとうございます。春日さんがたくさん相談に乗ってくださったおかげで、仕上がりには自信がありますよ。こちら、一部サンプルです」
そう言って営業マンは、チラシを一枚差し出してくれた。受け取ると、表面は光沢のある厚紙で、市民芸術祭のロゴや配色が、華やかにレイアウトされていた。その中央――目を引かれるようにして、写真の中の彼女に視線が吸い寄せられる。金色のトランペットを構え、視線をわずかに逸らしたその姿は、まるで遠くの音を聴いているようだった。だけど、紙面の中のその眼差しが、真っ直ぐに自分へ向いている気がして――胸が、きゅっと音を立てて縮こまった。
思わず、指先で紙の端をなぞる。ひんやりとした感触が、熱を帯びた内側をゆっくりと冷ましていくようだった。
「……本当に、素敵なポスターだと思います。こんなにきれいに作っていただいて……ありがとうございました」
営業マンと簡単に挨拶を交わし、サンプルを手に自席へ戻る。何気ない風を装ってもう一度ポスターに目を落とすけれど、視線は自然と彼女に引き戻されてしまう。こんなにかっこいい彼女が――わたしのパートナーの松波奏だなんて、なんだか信じられない。今朝、家を出るときに寝ぐせをぴょんぴょんさせていたカナデと、本当に同一人物なんだろうか。つい笑ってしまうと、隣から声がかけられた。
「春日ちゃん、なんか楽しそうだね。って……なるほど、ポスターができたのか。お疲れ様、ちょっと見せてよ」
声をかけてきたのは、皐月先輩だった。サンプルを手渡すと、椅子に浅く腰かけたまま、熱心にポスターを眺めている。その横顔を見つめながら、今さら不備がなかったかと緊張する。掌をぎゅっと握りしめていると、皐月先輩はぱっと顔を上げた。
「これは……めちゃめちゃ良く仕上がっていると思うよ」
そう言って皐月先輩はわたしに向き直り、にこりと笑ってデスクに肘をついた。
「デザインもすごいおしゃれだし、去年のより全然良いわ。頑張ったね。春日ちゃん、すごいじゃん」
その言葉に、頬がくすぐったくなる。こんなに褒めてもらえるなんて。でも、たぶんこれは――わたしの我儘を受け止めてくれて、いちから一緒に考えてくれた、あの営業のお兄さんの丁寧な仕事のおかげだと思う。
「さてと、ポスターも仕上がったし……あとはこれを市内のいろんなところに配布するだけだけど。どう? できそう?」
「あっ、はい。封筒の準備は終わっているので……あとは中身を詰めて、送るだけです」
「マジで? 結構量あったでしょ。春日ちゃん、相変わらず仕事早……。それなら来週中には片づきそうだね」
そう言って、皐月先輩は背もたれに寄りかかりながら、もう一度チラシに視線を落とす。「ふうん……」と意味深な声を漏らしたかと思うと、にやりと口元を緩める。
「……松波さん、めっちゃカッコいいじゃん。すごいね。春日ちゃんの作ったこのポスターが、市内じゅうに貼られるんだよ」
その言葉が、耳の奥でゆっくりと熱を帯びていく。胸の内側からじわじわと熱が広がり、喉の奥がやけに乾くようだった。言葉がうまく返せなくて、視線が落ちた。
「な、何言ってるんですか……?」
どうにか声を絞り出すと、チラシを笑顔で返される。つい目を逸らしながらも、視線はポスターの中のカナデへと吸い寄せられていた。複数の演奏者の中に立つ、金色のトランペッター。その涼やかな横顔と、わずかに遠くを見つめるような眼差しは――何度見ても、身内びいき抜きで本当にかっこいい。
「ははは、春日ちゃんったら真っ赤。まったく、可愛いんだから。松波さんのためにも、芸術祭頑張らなきゃね」
「皐月先輩……からかわないでください。カナ……じゃなくて、松波さんのことは……別に関係ないですから……! 公私混同するつもりは、ありませんからね!」
思いがけず強めの声が出てしまい、わたしは慌てて口元を押さえる。はっとして辺りを見回すけれど、幸い同僚たちは誰も気には留めていなかった。安心して胸を撫でおろすと、皐月先輩はくすっと笑いながら、口元に手を当てた。
「とか言っちゃって。いやー、若いね。羨ましい。今度飲みながら、松波さんのこと色々教えてよ」
悪戯っぽく笑う皐月先輩から顔を背けながらも、飲みの誘いにはつい頷いてしまう。この軽さと大人の余裕に、わたしはいつも救われているんだから……無下にすることもできない。小さく溜息を吐き出すと、また笑われてしまった。
「いやー、面白。それにしても、芸術祭……春日ちゃんの入ってる楽団も演奏するんだっけ?」
その言葉に、わたしは椅子を引き直して向き直る。団長からの圧……という名の依頼により、今年の市民芸術祭では市民吹奏楽団マリンウインドもステージで演奏する時間を設けることになった。最近の団長は、これでもかというほどプレッシャーをかけてきて、正直苦笑してしまうけれど……それでも、市職員としてイベントが盛り上がるのは嬉しいし、楽団執行部としてもありがたい話ではある。って、これじゃ完全に公私混同だ。
「……そうなんです。芸術祭の二日目、土曜日に時間をいただいていて。当日って、出勤する必要ありますか? そうであれば、楽団のステージに出るのは控えようと思っているのですが……」
「いや? 大丈夫だよ。私たち市職員は芸術祭の初日と最後にちょっと応援に行くくらいで、当日の運営は全部音楽協会に委託してるから。まーでも、契約とか支払いの事務はうちがやるんだけどね。本当は、それも協会に丸投げしたいんだけど」
笑いながら皐月先輩は立ち上がり、「演奏、頑張ってね」と言いながら、わたしの椅子の背を軽く叩いた。そして、マグカップを手に給湯室へと向かっていく。その背中を見送りながら、わたしは静かに息を吐いた。マウスを弄ってスリープモードになってしまったパソコンを起動させ、キーボードの上に置いていたチラシを……また見てしまう。
いやいや。これはわたしが仕事で作ったポスターってだけで、全然……仕事中もカナデの姿を見たいとか、そういうのじゃないんだから。記念に、置いておくだけで……。
こっそりと、透明のデスクマットの端をめくる。誰にも見られないように気をつけながら、静かにチラシをその下へ滑り込ませる。紙がマットの下でぴたりと収まる音がして、胸の奥でそっと息をついた。机に視線を落とすと、またもや視線が吸い寄せられる。これは……もしかしたら、逆効果かもしれない……。気になってちらちらと見てしまって、まったく集中できそうにない。
それでも。この一瞬だけは――誰にも見られないところで、こっそりと心を奪われていたかった。やっぱり、わたしは公私混同しているのかもしれない。
分かっているのに、手放せない。自嘲気味に小さく笑って、わたしはマウスを握り直した。




