第四十八話 幸福な日常(4)
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パソコンに向かって事務処理を進めていると、定時を知らせるチャイムがふいに鳴った。
――えっ、もうそんな時間?
慌ててマウスに手を伸ばしかけた瞬間、画面の端に別の手がぬっと差し出される。隣を見ると、皐月先輩がにこにこと笑いながら、わたしのノートパソコンを閉じようとしていた。
「春日ちゃーん、定時です。今日の業務は終了です。画面を閉じてください」
「えっ、皐月先輩……最後、一瞬メールの確認だけ……」
「駄目でーす。そんなの、明日やっても同じでしょ? 早く帰ってあげなよ。それに、今日はノー残業デーだから。新人を残すと私の責任になっちゃうから。先輩のために早く帰りましょう」
悪戯っぽい笑顔に押されるようにして、しぶしぶ作業中の表計算ファイルを保存し、シャットダウンのボタンをクリックする。画面が暗転したのを確認した皐月先輩は満足そうに「お疲れさま」と言って、わたしの椅子の背を軽く叩いた。
「先輩……ありがとうございます。じゃあ……お先に失礼します。お疲れ様です」
「はい、気を付けてね。松波さんによろしく。早速呼びたいイベントがいくつかあるから、待っててって言っといて」
先輩は片手を軽く振って、再び自分のパソコンに向き直る。わたしは鞄の持ち手を握りしめて、執務室を後にした。
穏やかな西日が、庁舎の窓を金色に染めていた。わたしは少し早足で、帰り道を歩く。途中、コンビニに寄り道して、普段は買わないちょっと高めのアイスを二つ選んだ。プレゼンを頑張った、ご褒美だ。
カナデ、どっちが好きかな。きっと「半分こしようよ」って言ってくれるんだろうな。なんて考えていたら自然と口元が緩んでしまい、慌てて真顔に戻る。
職場から十五分ほど歩いた先に、わたしたちが暮らすマンションがある。名義はわたし。楽器演奏可の物件だから、家賃は少し張るけれど――わたしの収入と家賃補助、そしてカナデが一生懸命仕事を取ってくれているおかげで、なんとかやっていけている。音楽家って、本当にすごい。組織で飼い慣らされたわたしには、到底真似することはできないだろう。そんなことを考えながら、オートロックを抜けて、エレベーターに乗る。玄関のドアを開けた瞬間、ふわりと香ばしいにんにくの香りが鼻をくすぐった。
「あっ。ミナ……お帰り。お疲れ様。早かったね」
音に気づいたカナデが、ぱたぱたとスリッパの音を響かせて玄関にやって来る。その姿は、まさに主婦そのものだった。家に帰ると大好きな人が、自分を待っていてくれているなんて……毎日思うけど、本当に夢みたい。パンプスを脱ぎ捨てるようにして、わたしはその身体に思い切り飛びついた。
「カナデ〜! ただいま~……!」
「何、ミナどうしたの? よしよし……今日のミナ、めちゃくちゃかっこよかったよ」
身を委ねると、一日の疲れがじんわりと溶けていくようだった。肩に顎を乗せてすっかりだらしなくなってしまったわたしの背中を、カナデがゆっくりと撫でてくれる。安心して、このまま眠りにつきたいところだけど……手に持ったままのコンビニの袋を思い出して、わたしは首を持ち上げた。
「そうだ、カナデ……お土産にアイス買ってきたよ。高いやつ。イチゴと……ラムレーズン……どっちがいい?」
「本当? ありがとう。迷うな……っていうか、それ二つともミナが好きな味じゃん。ミナ、どっちも食べたいんでしょ」
「えっ……そんなことないよ?」
「嘘だ、目が泳いでる。じゃあ、後で半分こしよう。それでいいでしょ?」
カナデは笑いながらわたしの手からビニール袋を受け取り、「楽しみだね」と呟いてキッチンに戻っていく。その背中を、わたしは頷きながら追いかけた。




