第四十八話 幸福な日常(3)
***
音楽協会が入っているホテルの駐車場に、慎重に車を停める。まだ緊張が抜けない手で荷物を持ち、皐月先輩と並んでエントランスをくぐった。受付で名前を告げると、案内されたのは中階の会議室だった。すでに準備を進めていた協会の職員の人たちと名刺を交換しながら、手早くプロジェクターの接続を済ませる。机の上に配られた資料は、わたしが作成したスライドを印刷したもの。
――本当に、わたしで大丈夫かな。癖のように、咳払いをひとつ。眼鏡のフレームを指で押し上げると、隣で皐月先輩が小さく笑った。
「……春日ちゃんったら、緊張し過ぎでしょ。超顔に出てるよ」
打ち合わせの時間が近づくにつれて、出席者が少しずつ集まってくる。そのたびに立ち上がって名刺を渡し、短い挨拶を交わす。中にはわたしと年齢が変わらなさそうな人もいて、つい心の中で「すごいなあ」と感心してしまう。ふと、会議室の扉が開いた。何気なく目を向けたその先で――知っている顔と、ばっちり視線が合った。
「……あれっ、ミナ? なんでいんの?」
お互いに一瞬目を見開いて、驚きのまま近寄っていく。部屋に入ってきたのは、いつものようにスーツを凛と着こなしたカナデだった。
「カナデこそ……どうしてここに?」
「いや。演奏をお願いしたいって協会から言われてて……それの打ち合わせって聞いてたんだけど。なるほど、ミナがやるイベントだったのか……」
納得したように頷きながら、カナデがこちらを見つめる。そしてぽつりと、からかうように呟いた。
「……眼鏡姿、初めて見た。へえ……。これは、なかなか……。帰ったら、家でかけてみてよ」
その一言に、頬が一気に熱くなる。衝動的に肩を小突きたくなったけど、ここは公共の場。ぐっと我慢して、溜息を吐くように返す。
「……何言ってるの? もう……やめてよ……」
つい目を伏せていると、横から皐月先輩の声がした。
「何? 春日ちゃんの知り合いの子?」
興味深そうな様子で近づいてきた皐月先輩が、にこやかに名刺を差し出す。カナデもどこか柔らかい笑顔で、自分の名前を名乗った。
「トランペット奏者の松波奏と申します。今日は、よろしくお願いします」
その様子を横目で眺めつつ、わたしも少し迷いながら、名刺を取り出して手渡した。
「……市の芸術文化振興課の、春日と申します。本日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
「はい、春日美奈さんですね。音楽協会会員の……松波奏です。なんて……ははっ」
わざとらしく丁寧なやりとりに、つい顔を見合わせて笑ってしまう。カナデはわたしが渡した名刺を優しく見つめて、まるで大切なものを扱うように両手で抱えた。
そのとき、横から皐月先輩の視線を感じた。その視線の意味を、なんとなく察してしまって――ほんの一拍だけ考えてから、わたしは皐月先輩のほうへ身体を向けた。
「……皐月先輩。彼女が、わたしの……パートナーなんです。これも……内緒にしておいてください」
小声で、でもはっきりと告げてしまった。頬がほんのり熱くなるのを自覚しながら、それでも控えめに笑ってみせた。皐月先輩は目を丸くして、わざとらしく感心したような声を上げた。そして、わたしたちの間を見比べてから、何かを思いついたようにぽんと手を叩く。
「……なるほどね。春日ちゃんの相手……めちゃくちゃかっこいいじゃん。最高だよ。松波さん、どうか今後ともよろしくお願いします。ふふっ……」
皐月先輩はさらりとそう言って、気さくに手を振りながら自分の席へ戻っていく。その背中がなんだか頼もしくて嬉しくて、ちょっと照れくさい。
「……ねえ、ミナ。言ってよかったの?」
横でカナデが、焦ったように声をひそめる。でも、もう遅い。わたしは小さく頷いて、カナデと目を合わせた。
「……カナデのこと、ちゃんと伝えたかったの。嫌だった……?」
「えっ。そんなわけないじゃん。いや、むしろ……まあいいや。ミナがいいなら、いいんだよ、それで」
カナデは左手で口元を隠しつつ、照れたように視線を外した。その拍子に青い石の付いたペアリングがきらりと輝き、胸がじんわりと熱くなる。つい顔が緩みそうになったけれど、今は仕事中。もう一度背筋を正して、眼鏡のフレームを持ち上げた。
「……じゃあ、カナデ。またあとでね」
カナデに目配せをして、わたしも皐月先輩の後を追う。会議の時間が迫っている。プレゼンを、成功させなきゃいけない。
――だけど、まさかここで、カナデとばったり会うなんて。ほんと……やりづらいったら、ありゃしないんだから。
「……本日はご多用の中、お集まりいただきありがとうございます。本件は、今年度の市民芸術祭に関する第一回目の打ち合わせとなります。お手元の資料をご覧ください。市民芸術祭は、本市の芸術文化の振興と普及を目的として、例年開催されているイベントですが……音楽分野に関しては、これまで同様、音楽協会様のご協力のもと実施いたします……」
プロジェクターの白い光が、眼鏡越しにぼんやりとにじんだ。わたしはスライドに沿って、淡々と話を進める。焦らずに、丁寧に。会議室の出席者たちは皆、真剣な面持ちで資料に目を落としていた。その中で、ひとりだけ――何度か顔を上げては、こっそりと微笑みを向けてくる人がいた。カナデ。その笑顔を見るたび、喉が少しだけ詰まりそうになる。でも、ぐっと堪えて何でもないふりをして言葉を繋いだ。
今回、音楽協会側からの提案で、例年のプログラムに加え、オープニングイベントに若手演奏家によるミニリサイタルを設けることになった。カナデはその演奏候補者として、今日の会議に呼ばれていたらしい。わたしが説明を終えると若い演奏家たちは、すんなりと提案を受け入れてくれた。
会議が終わってノートパソコンの電源を落とすと、カナデがわたしの方へ歩いてきた。資料を片付ける手元を見ながら、なんだか居心地が悪くてそわそわしてしまう。
「春日さん、お疲れ様でした。格好良かったですね」
にやにやとわたしをからかうように笑うその声に、思わず耳が熱くなる。つい唇を尖らせて、視線を外した。
「もう、カナデったら……! やめてよ……。わたしだって……松波先生の演奏、期待しています」
「ねえ、その先生って言うの、何なの? まったく……。まあでも、せっかく貰った仕事だし……何より、ミナが主催のイベントだし。半端な演奏は出来ないね」
カナデはひとつ息を吐きながら、わたしにどこか強気な笑顔を見せつける。その言葉があまりにも自然で、じんわり胸があたたかくなった。
「カナデの演奏は、いつだってかっこいいから……大丈夫だよ。でも……カナデと一緒に仕事ができるなんて、本当にうれしい。わたし……がんばるね」
指先でパソコンを撫でながら、わたしはカナデに笑いかける。カナデもふっと笑って、いつものようにわたしを見つめ返してくれた。仕事中じゃなければ、わたしはきっと、そのまま抱きついてしまっていたと思う。
「ミナ……でも、あんまり無理し過ぎないこと。今日の晩ご飯は、ミナの好きな唐揚げにするよ。この後、スーパーに行って鶏肉買ってくるね。一人で揚げるのはまだちょっと心配だから……帰ったら、一緒にやってくれない?」
「わあ、唐揚げ……! カナデの作る唐揚げ、世界で一番好き。じゃあ頑張って仕事を終わらせて、早く帰るからね」
ふたりで笑い合いながら片付けをしていると、視界の端で誰かがにやりと笑った。嫌な予感がして振り返ると、案の定、皐月先輩がこちらを見て楽しそうに笑っていた。
「春日ちゃんったら……デレッデレじゃん……。あの真面目な春日ちゃんに、こんな一面があったなんて……しかも相手は、音楽協会のトランぺッター! これはもう……市のイベントに呼び放題じゃん。ありがたく使わせてもらいたいんだけど、大丈夫?」
「ちょ、ちょっと皐月先輩……! もう……絶対秘密にしておいてくださいね? っていうか、そんなデレデレしてないですし……!」
耳まで赤くなっているのを自覚しながら、思わず声を上げる。必死に否定していると、カナデは遠慮がちに笑いながら、皐月先輩のほうへ目を向けた。
「ははっ……仕事、いつでも募集中なので。気軽にお声かけください」
「本当ですか。では後ほど、ご連絡させていただきますね。……ふふ、春日ちゃんのお陰でマジ助かったよ。ありがとね」
皐月先輩の軽口に、わたしはただもう、溜息をつくしかなかった。だけど――そんなわたしを笑うカナデその横顔が、どこか誇らしげに見えて。なんだか背中を押されるような気持ちになって。
――やっぱり、かっこいいな。こんな風に、わたしの隣にいてくれる人がカナデなんて。ちょっと、夢みたいだと思ってしまった。




