第四十八話 幸福な日常(1)
気が付けば、部屋のどこかから香ばしい匂いが漂っていた。ベッドの上で身体をもぞりと動かすと、シーツが擦れる音と、夜のあたたかさがまだ残る感触が肌を包む。重い瞼をこすりながら、寝ぼけながらも隣を探る。そこには脱ぎ捨てられた部屋着が、ぽつんと取り残されていた。そこに残る微かな体温と、おそろいのシャンプーの香り。胸に抱き寄せたその布のぬくもりに、心の奥がふわりと緩む。思わずもう一度意識を手放しそうになり、はっとして目を開いた。
……だめだめ。深呼吸をひとつして、気持ちを引き戻して上半身を起こす。枕元のスマートフォンには、アラームが鳴る少し前の時刻が、淡く光っていた。
カーテンの隙間から差し込む、やわらかな朝の光。わたしはぼんやりした頭のままスリッパを足先で探り当て、まだ半分夢の中のような足取りで部屋の扉を開ける。視界がぱっと明るくなり、キッチンからは油の音が聞こえてきた。
「……カナデ、おはよう。早いね? どうしたの……?」
パジャマ姿のまま覗き込むと、カナデはすでに服に着替えて、ガスコンロの前に立っていた。振り返ったと同時に、「ミナ、おはよう」と笑ってくれる。その声は、目覚ましよりもずっと優しく、心に届く。
「ちょっと早く目が覚めて。ミナの朝ごはんを作ってみようかなって、思ったんだ」
フライパンの中ではスーパーで買ったウインナーが、じゅうじゅうと豪快な音を立てている。カナデは菜箸を無造作に動かしながら、どこか誇らしげな顔でこちらを見た。その顔がまるで、褒めてとでも言いたげで。わたしがふっと笑いそうになった、その瞬間だった。ぱちんと、ウインナーのひとつが弾けるような音を立てた。
「……えっ。何、爆発した? 嘘、ウインナーが?」
「ちょ、ちょっとカナデ……! 焼く前に、ちゃんと切れ目入れた? 入れないと、破裂しちゃうから……! そ、それに……火も、強すぎかも……!」
「本当に? やばっ……」
二人で慌ててガスコンロの火を止めて、フライパンを下ろす。カナデが急いで中身をお皿に移してくれたおかげで、さらなる大惨事は回避された。わたしたちはほっと息を吐き、顔を見合わせる。さっきまでぼんやりしていた頭は、もうすっかり目覚めていた。
「なるほど……。ウインナーは焼く前に、切れ目を入れなきゃいけないんだね……」
「うん……」
「はは……。これ、食べられるかな。どう思う? 見た目、すごいけど」
「うーん……火は通ってそうだから、大丈夫だと思うけど……」
カナデは眉をひそめて、お皿に盛られた大量のウインナーを見つめている。破裂したものは割れ目から肉が漏れていたし、全体的に茶色く焼け焦げていた。だけど……わたしにはその全部が、愛おしかった。思わず、わたしはカナデに正面から抱きついた。不器用でも、失敗しても、わたしのためにやってくれた――そのことが、胸に染みるように嬉しかった。
「……カナデ、ありがとう。もう……カナデ……。本当に好き。大好き。かわいい。愛してる」
「いや、突然何言ってんの。失敗しちゃったし……。でもまあ……うん……覚えたよ。次は気を付けるから」
頬をくっつけながら、わたしは全体重をカナデに預ける。ふと、カナデの髪の毛から微かに焦げたウインナーの匂いがして、笑いそうになった。朝からカナデのことが好きすぎて、愛おしすぎて、ぎゅうっと腕に力がこもる。カナデはわたしの背中を撫でながら、呆れたように顔を覗き込んだ。
「……私も、ミナのことを愛してるよ。私の可愛いお嫁さんのミナは……こんなことしてて、大丈夫なの? もう準備する時間じゃないの?」
「……えっ」
カナデの言葉にはっとして、壁に掛けられた時計を見上げる。いつも起きる時間はとうに過ぎていて、刻一刻と出勤時間が迫っていた。
「や、やだ……急がなきゃ……! でも、カナデの朝ごはんは絶対食べるから。すぐ準備するから! 待ってて!」
わたしは慌てて身を離し、パジャマのままばたばたと洗面所に駆けだしていく。カナデの焼いてくれたウインナーのために、一秒でも早く支度を終えたかった。
顔を洗って、手早くメイクを整える。いわゆるオフィスカジュアルと呼ばれる服に袖を通し、ブローした髪をハーフアップに結ぶと、鏡の中には――いつも通りの市役所職員、春日美奈がいた。でも、そんないつも通りのわたしを包む空気が、今日はどこか違って感じる。漂う香りも、射し込む朝日も、ふとした瞬間に聞こえるラジオの音も。全部が、どこかやわらかい。
ダイニングテーブルには山盛りのウインナー、目玉焼き、トースト。カナデの手による、ちょっと豪華な朝ごはんが並んでいた。カウンターの向こうでは、コーヒーを注ぐカナデがご機嫌そうに笑っている。
「全部、焼いただけだけどね。はい、コーヒーもどうぞ」
わたしの前に、そっとピンク色のマグカップが置かれる。中で揺れる、ミルクコーヒーの淡い茶色。ひとくち含むと、ミルクのまろやかさと、ほどよい甘さが舌に広がった。カナデがわたしの好みを覚えてくれていることが、こんなにも心を満たしてくれるなんて。カナデはブラックコーヒーの入った色違いのマグカップを机に並べ、対面に座る。
「ありがとう、カナデ……いただきます……!」
ぱん、と小さく手を合わせて、箸を伸ばす。ウインナーをかぷりとかじると、小気味いい音とともに、じゅわっと肉汁が弾けた。
「うわあ……! カナデ、美味しい。美味しすぎるよ……」
「大げさじゃない? 焦げてるよ? それにしても……なんでそんな、泣きそうな顔してんの?」
「カナデが……わたしのために作ってくれたことが、うれしくて……」
口の中に広がったのは、味だけじゃなかった。胸の奥にじんわりと広がっていく、幸せの味。ふいに込み上げてきたものを誤魔化すように、わたしはマグカップに口をつけた。だけど――視線の先に座るカナデが、あまりにも眩しくて。思わず、目を逸らしてしまう。
「ミナったら……こんなで良ければ、またいつでも作ってあげるよ。私が起きられた日限定だけどね」
カナデはくすりと笑い、コーヒーをすする。わたしは箸を動かしながら、その整った顔をこっそり見つめていた。
――同じ家で朝を迎えて、同じテーブルで向かい合っている。カナデが、こんなにも近くにいる。そのことが、いまだにちょっと信じられない。何気ない一秒ごとに、「同棲って、すごい……」と、心の中で呟いてしまう。
部屋の隅ではカナデがつけたラジオから、お洒落なジャズが控えめに流れていた。朝のラジオは、カナデのお気に入りだった。最近の曲や知らない音楽にも出会えるから、だそうだ。メロディがふっと終わり、代わりに時報の音が流れる。
「うっ、もうこんな時間……」
「片付けは私がしておくから、ミナは準備してきなよ。私は今日、昼前に打ち合わせで出かけるだけだから」
「うう……ありがとう……。至れり尽くせりで、なんだかダメになっちゃいそう……」
「いいじゃん。私はこれくらいしか出来ないから。ミナのこと、甘やかさせてよ」
カナデの言葉に背中を押されて、わたしは後ろ髪を引かれつつも立ち上がる。歯を磨いて、荷物をまとめて、腕時計に目をやると……もう出発の時間が迫っていた。落ち着かないまま廊下を走り、玄関のパンプスに足を突っ込む。すると、片付けを終えたカナデが見送りにやってきてくれた。
「……じゃあカナデ、行ってきます。たぶん、残業はしないと思うけど……もし遅くなりそうだったら、連絡するね」
「分かった。ミナ、気を付けて行ってらっしゃい」
「カナデもね。気を付けて」
顔を寄せ合って、頬に口付ける。同棲してから何度も繰り返してきた朝の儀式なのに、どうしてこんなにもくすぐったくて、あたたかいんだろう。名残惜しさを押し隠すように目を合わせ、今度は軽く唇を重ねる。顔を離して見つめ合いながら、どちらともなく小さく笑った。
「……カナデ、行ってきます!」
もう一度わたしがそう言うと、カナデは穏やかな目で笑って、ひらひらと手を振ってくれた。わたしはドアノブに手をかけて、朝日の中、笑いながら手を振った。




