第四十六話 変わらないものと、変わるもの(3)
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寝不足の頭で、ぼんやりとカフェのBGMに耳を澄ませる。穏やかなジャズがゆっくりと流れていて、曇り空のような、柔らかく湿ったトランペットの音色が響いていた。……あ、ジャズだ。カナデはもしかしたら、こんな音楽を吹くのかもしれない。今の大人びたカナデに、しっとりとした雰囲気の曲はよく似合う。いつか、聴かせてくれるかな。昨夜のぬくもりが残るこの朝に、ぴったりな旋律だと思った。
左手の薬指に、ふと目を落とす。四年ぶりに見たピンクの石が、昨晩の出来事は夢ではないと静かに告げている。思い出すたびに顔から火が出そうだったけれど、それでも……胸がじんわりと温かくなった。ずっと胸の奥で願っていたことが、ちゃんと叶ったんだ。
夢じゃない。カナデが、ここにいる。わたしの隣で、これからも生きていく。
わたしたちは女同士だし、本当に婚姻関係が結べるわけじゃない。パートナーシップとかも色々あるみたいだけど……結婚って……わたしたちは何をもって、結婚したと言えるんだろう。カナデとの“結婚”――それが法的にどう呼ばれるものであっても、心はもう、決まっている。たとえ形式が違っても、わたしたちは「人生を一緒に歩んでいく」ことを選んだ。
目の前に左手を掲げて、指先でそっと、指輪をなぞる。その動きを追うように、カナデがトレイを手に戻ってきた。
「お待たせ。ミナのカフェラテと、なんか適当なサンドイッチ買ってきたけど……どっちがいい?」
対面に座ったカナデにお礼を言って、二つ置かれたサンドイッチを見つめてみる。片方はハムとレタスが入っているシンプルなもので、もう片方は卵やベーコンが入っているクラブハウスサンドみたいだった。どうしよう、カナデはどっちが好きなのかな……。ちらりとカナデの姿を見てみると、目が合ってふっと笑われた。
「……ミナ、好きな方選びなよ」
「えっ。……どっちも美味しそうで、困る。カナデが選んでよ」
「ミナったら、欲張りだね。じゃあ二人で、シェアしようか」
「もう、カナデ……! でも、そうする……」
わたしはつい顔を伏せてしまったけれど、それだけのやりとりが、嬉しくてたまらなかった。ほんの少し前まで遠くにいた人と、いま目の前で、パンを分け合っている。こんな何気ない時間が、いちばん幸せなのかもしれない。
カナデは笑うように息を吐いて、マグカップを唇に運んだ。真っ白な陶器のふちから覗くコーヒーは、深い黒に艶めいていて、ちょっとした宝石みたいに見えた。香ばしい匂いがふわりと立ち上り、わたしの鼻先をくすぐる。カナデがコーヒーを飲んでいる。ただそれだけなのに、胸がきゅっと締めつけられる。
「っていうか、カナデ……何飲んでるの? ブラックコーヒー? 飲めたの……?」
「ん? そうだよ。向こうにいる間、飲めるようになった。ミナは相変わらず、カフェラテなんだね。可愛い」
言われた瞬間、顔がぼっと熱を持つ。その仕草があまりにも落ち着いていて、まるで別世界の人みたいだった。昔と少しだけ変わった髪型と、黒いスーツ。でも、その笑顔だけは、昔と変わらない。……だから余計に、苦しくなるくらい、好きだと思ってしまった。
「ミナ、顔赤いけど大丈夫?」
「……カナデのせいでしょ! そんなに大人になって……ずるい。わたしにも一口飲ませてよ」
むきになってついこんなことを言ってしまい、カナデが差し出したマグカップに口をつけてみる。途端に舌先にじんわりとした苦みがしみ込んできて、わたしは何も言わずに視線を外した。こんなものを何てことない顔をしながら飲んでいるだなんて……ちょっと信じられなかった。これ、美味しいのだろうか。
「あはは! ミナ……そんな、無理しなくていいのに。ミナはそのままでいいんだよ。ほら、返して」
カナデは軽く笑って、マグカップを自分の手元に引き寄せた。わたしはカナデを少し恨めしそうに見ながら、自分のカフェラテを一口飲む。カフェラテですら、ちょっと苦いなと思うのに……ブラックコーヒーなんて……。自分の子供っぽさが際立って、ちょっとだけ情けない。
「カナデの意地悪……。それにしても、カナデはこの後……どうするの? ……ずっと、地元にいてくれるの?」
「んー、そうだね。今のところは実家から、呼ばれた仕事に通う予定。まあしばらくは、こんな感じだろうね。私なんて……ミナと違って根無し草だよ、はは」
カナデは自嘲的に笑って、再びコーヒーに口を付ける。音楽家という職業について、わたしはよく知らないけど……フリーランスみたいな感じなのだろうか。自由な分だけ、道の形が見えにくい。わたしとは住む世界が違い過ぎて、全く想像ができなかった。
「ミナは公務員だもんね……しっかりしてて、本当凄いよ。私、このままだとミナのヒモになりそうで怖いな。頑張って仕事を探さないと……」
カナデは冗談めかして笑いながら、指輪を撫でた。しばらく口を噤み、カナデは喉を上下させる。そしてふいに顔を上げて、覚悟を決めたように口を開いた。
「ねえ、ミナ。よかったら……一緒に住もうよ」
その言葉に、わたしの心臓が跳ねる。つい瞬きをすると、カナデは頬を掻いて早口で続けた。
「私、こんなだけど……出来るだけミナの負担にならないように、仕事も見つける。それに、多少料理も、出来るようになったんだ。家事も……ミナの仕事を支えられるように、頑張るよ。だから……」
それは、昨日の“結婚”と同じくらい、わたしの心を震わせる言葉だった。ここがカフェの店内じゃなかったら、わたしはカナデに飛びついていただろう。抱きつきたい気持ちをぐっと堪えて、わたしは頷く。何度も何度も、頷いた。「そんなに?」と笑われてしまったけれど、うれしくて、仕方なかった。……だってわたしも、同じことを考えていたのだから。
「わたし……カナデのために、頑張って働くね……!」
「ちょっと待って、それじゃ本当にヒモになっちゃうから。あんまり甘やかさないで」
カナデは困ったように言ったけれど、カナデのためと思った途端、仕事へのやる気が増してきた。どんなに疲れた日も、カナデがいると思えば頑張れる。カナデとの生活を支えるために、お金を稼ぐなんて……それだけで、毎日仕事に行く理由になる。
「ねえ、ミナ、聞いてる? 気持ちは嬉しいけど、頑張り過ぎないでよ。ミナがいてくれるだけで、いいんだから」
カナデの呆れ声も、夢見心地のわたしの耳には入ってこない。カナデの言葉が、胸にあたたかくしみ込んでいく。わたしがいるだけでいいと、カナデが言ってくれることが――何よりの力になる。「まったく……」と笑いながらも、カナデはスマートフォンを取り出した。
「……どんな家がいいか、探さなきゃね」
そう呟いたカナデの声も、どこかふわふわと楽しそうで……わたしは頷いて、カナデに向かって笑いかけた。未来の生活を、ふたりで選んでいく。その何気ない一言が、こんなにも嬉しいなんて。カナデの隣で、新しい日々が始まるんだ。あたたかくて、穏やかで、でも確かに、夢じゃない現実として。




