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第四十六話 変わらないものと、変わるもの(2)

 カナデはわたしの背中から手を離し、胸の前で両手を重ねる。右手の薬指にはまっていた、あのピンクの石の指輪。カナデはそれをゆっくりと外し、掌の上にのせた。


「ミナの指輪……四年間、ずっと肌身離さず着けてたよ。ごめん、少し傷ついちゃったけど……それも全部、大切な時間の跡なのかな」


 カナデはわたしの左手をすくい上げ、掌に唇を落とす。そしてひと呼吸おいてから、その指輪を、丁寧に――まるで誓うように、薬指へ滑らせた。カナデの指がわたしに触れるたび、心臓が甘く震えた。まるで、時間の境目が音もなく溶けていくようだった。


 指輪がわたしの左手に収まった瞬間、胸の奥に、そっと灯がともった気がした。もう離れないと、ずっと一緒にいると。そう言われたような気がして……涙がまた、頬を伝った。


 わたしもまた、右手の薬指に視線を落とす。あの頃からずっと身につけていた、銀色の指輪。毎日眺めては、いつもカナデのことを想っていた。すっかり見慣れてしまった――少しくすんだその輝きも、青い石も、どこまでも愛おしかった。


「カナデの指輪も……ちょっと傷ついちゃってるけど……ずっと、わたしと一緒にいたよ。ちゃんと……わたしの心のそばに、いてくれた」


 取り外し、今度はわたしがカナデの左手を取り、薬指に指輪をはめる。カナデは静かに笑いながら、わたしを見つめ返してくれた。


 この瞬間、四年の距離が、確かに消えた。あの時間があったから、今、ふたりは同じ場所に立っている。寄り添った指先で、銀色の指輪がふたつ、同じ光を放っていた。


 窓の外では街が静かに眠り、部屋にはふたりの呼吸だけが満ちていた。自然と、十本の指が絡まり合う。わたしたちはそのまま、ゆっくりとベッドサイドへと歩いた。何も言葉を交わさず、ただ、手を繋いだまま。


 ベッドの縁に腰を下ろすと、カナデがわたしの髪に指を滑らせる。流れるように頬に触れた掌は、湯上がりのぬくもりを帯びていて、どこか震えているようだった。目を合わせたカナデの瞳が、少しだけ揺れている。その揺らぎすら、たまらなく愛おしい。わたしはカナデの湿ったままの短い髪に、指先を伸ばした。


「ミナ……大丈夫? 無理……してない?」


 その声には、戸惑いと遠慮が滲んでいた。わたしはカナデの胸元に顔を埋めて、首を小さく横に振る。そんなことない、大丈夫だよと……そう伝えたかった。それだけで精一杯だったけれど、それでもカナデの手は心配そうに、わたしの背中を撫でてくれる。


「……最初はね、緊張しすぎて……ちょっと怖かったんだけど……もう平気。それに……それにね……」


 言いながら、わたしはゆっくりと顔を上げる。心臓がばくばくと鳴っていて、今にも涙がこぼれそうだった。だけど――わたしは震える声で、はっきりと告げた。


「わたし……本当はもっと……カナデに、近付きたいって……思ってる」


 瞳を見つめて、想いをぶつける。驚いたように目を瞬かせたカナデに、わたしはそっと身を寄せた。何も言わずに瞼を閉じて、唇を重ねる。


 せっけんの香りが、すぐそこにあった。触れ合った場所から、あたたかな体温が溶けだしていく。こんなふうに自分から触れるなんて――本当は、恥ずかしくてたまらなかった。でも、今なら少しだけ、勇気が持てそうな気がした。わたしのその想いを、カナデが優しく受け止めてくれる。カナデはわずかに震える指先で、わたしの身体に両手をまわした。


 顔を離したとき、カナデの瞳に、やわらかな光がにじんでいた。照明の淡い輝きに包まれて、視線がそっと絡まる。何も言葉が出てこない。ただ、胸の音だけが、少しずつ速くなっていく。ふいにカナデが視線を外し、大きく息を吐いた。小さく項垂れ、肩が揺れている。


「……ミナ、ずるいよ。私が、どれだけ……。ねえ、本気で言ってるの……?」


 その声は熱くて、震えていて。わたしが頷くともう一回息を吐いて、カナデは消え入りそうな声で呟いた。


「そんなこと言われたら……もう……」


 天井を仰いで顔を腕で覆いながら、カナデはしばらく黙り込んでいた。やがてゆっくりと視線を戻し、ただ真っ直ぐにわたしを見つめる。


「……もし、嫌だったり、怖かったりしたら……すぐに言って。私……ミナを傷付けることだけは……もう絶対に、したくないから」


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。わたしは小さく首を振り、微笑んだ。


「カナデったら。そんなの、大丈夫なのに……。わたし、カナデになら……何をされてもうれしい。でも……わかった、ありがとう。カナデも……やだったら、教えてね」


 カナデは少しだけ目を伏せていたけれど、何かを決意するように薄く息を吐いた。照れたような、泣きそうな、そんな顔で小さく笑う。


「ありがとう。……ミナのこと、大事にするよ。絶対に、大切にするから」


 わたしは黙って、頷いた。それだけで、胸の奥があたたかく満ちていく。カナデの手が、恐る恐るわたしの髪に触れる。まるで、宝物を扱うように。夢を壊さないように。


 わたしたちは何度も、目を合わせた。お互いの不安を確認するように。愛を確かめるように。そのたびに小さく笑って、少し照れて、また指先がそっと触れ合う。


「ふふ……カナデ、あったかい」


「ミナも、柔らかくて気持ち良い。こんなにそばにいられるなんて……夢みたいだよ」


 お互いの輪郭をなぞるように、手を伸ばす。触れるたびに気持ちが重なって、呼吸が合っていく。カナデは、わたしの名前を何度も呼んでくれた。その声はまるで祈りみたいに、静かに震えていた。わたしも同じように、カナデの名前を呼び返した。「好きだよ」と、何度も、何度も。髪を撫でながら、肌に触れながら、胸の奥にある想いを全部、伝えた。


 囁く声と、交わる息づかいが、深夜の空気に溶けていく。瞼を閉じながら、わたしは心の中で思っていた。


 ――この人には、わたしのすべてを見せていい。カナデとなら、預け合える。それが、どれほど幸せなことか。


 時間が、ゆっくりと過ぎていく。言葉にしなくても、想いはちゃんと伝わった。わたしたちは何も急がず、何も奪わず、ただ互いのぬくもりを抱きしめていた。


 カナデの腕のなか、わたしはそっと目を閉じた。聞こえるのは、カナデの鼓動。わたしの鼓動。その音が重なるたびに、わたしたちの距離が静かに深まっていく気がした。


「……カナデ、好き。わたしを好きでいてくれて……ありがとう」


「こっちこそ。……ミナのことを、愛してる。……これからも、よろしくね」


 わたしたちは何もかもをわかりあうように、額を寄せ合った。その静けさが、何よりも安心できる音だった。夜が深くなっていく。けれど、わたしたちの間にはもう、孤独も、迷いも、何もなかった。


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