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第四十二話 君への誓い(4)

 三人の姿が見えなくなって、わたしとカナデは目を合わせる。そのままくすくすと笑い合って、近くのベンチに並んで座った。


 カナデはわたしの右手を撫でるように触り、指を絡ませる。わたしは何も言わず、ただその綺麗な手を見つめていた。指先が、少しだけ震えている。あたたかくて、頼もしくて、ずっとわたしと繋いでいてくれていた手。それが、今にも離れてしまいそうで……どうしよう。何か言わなきゃ。だけど……。


「ミナ」


 ふいに名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。カナデの声は静かで、でもどこか切なさを帯びていた。はっとしてカナデのことを見ると、その黒い瞳が潤んでいた。


「……ちゃんとご飯、食べるんだよ。夜更かししないで、きちんと寝ること。あんまり頑張り過ぎないで。変な人に気を付けて。風邪、ひかないようにね。それから……」


 真面目な顔をしてこんなことを言い出したカナデに、思わず笑ってしまう。なんだか、まるでお母さんみたいだ。それに、そんなこと……。


「……カナデったら。その言葉、そのままカナデに返すからね? カナデこそ……無理、し過ぎちゃだめだよ。カナデは頑張り過ぎるところがあるから、心配」


 繋いでいた手に、もう片方の手を添える。異国の地へ、夢を叶えるために旅立つカナデ。きっとわたしがこう言っても、カナデは約束を守らないだろう。松波奏はいつだって真っ直ぐで、夢のために突っ走る。本当に心配だけど……わたしもこの場所で、カナデの帰りを待ちながら、自分の夢を叶えられるように頑張るよ。


「ミナ……。私、絶対成長して帰って来るよ。もっと強く、大人になって、ミナのことを迎えに来る。寂しい思いをさせてごめん。でも、どうか……私のことを信じていて。私のことを忘れないで。私のことを……好きでいて」


 今まで何度も聞いたその言葉に、わたしは頷く。わたしたちの手は震えていて、抱きしめるように包み合った。


「カナデも……。絶対わたしのことを迎えに来て。わたしのことを忘れないで。そして……わたしの大好きなカナデのトランペットの音色を、いろんな人に届けてきて。だって、カナデは……そのためにアメリカに行くんだもん! わたし……待ってるから。カナデのこと、信じてるよ」


 カナデは俯き、顔を上げないまま何度も頷く。小さな嗚咽が漏れていて、泣いていることに気が付いた。


「カナデ、泣かないでよ……。やだ、泣かないぞって思ってたのに……」


 片手がカナデの黒い短髪に触れた瞬間、涙が零れる。喉がきゅうっと締めつけられて、声がうまく出なかった。


「もう……わたしまで、泣いちゃうじゃん……」


 情けない泣き声が口元から漏れ、カナデの名前を呼びながら、わたしは頭を撫で続けた。カナデも小さな声でわたしを呼んで、背中を丸めたまま手をぎゅっと握り続けてくれた。


 館内放送が、カナデが乗る便の番号を告げている。カナデ、もう行かなきゃ。涙でいっぱいの顔のまま、額を一瞬だけこつんとぶつける。瞼を閉じて、静かに祈った。


 どうか、カナデの四年間が……幸せなものでありますように。


「……カナデ、呼ばれてるよ」


 わたしは立ち上がって、座ったままのカナデに手を伸ばす。泣きながら、無理に笑顔を作って見せた。そんな不格好な笑顔を見て、カナデも無理やり泣き笑いをして口角を上げる。掌をぎゅっと握りしめ、わたしはカナデを引っ張り上げた。


 チケットを持ったカナデが、保安検査場に続く入り口を見つめている。カナデが乗る飛行機の名前が繰り返しアナウンスされ、手続きの締切時間を告げていた。人通りの多い館内の中で、わたしとカナデだけの時間が止まっているようだった。だけど時間は、進み続ける。


「……じゃあ、ミナ……行くね」


 繋いだ手に視線を下ろし、カナデは囁く。わたしは頷き、二つの手がそっと離れた。ひとりぼっちになった瞬間、途端に身体が重くなる。


「カナデ……気を付けて、行ってらっしゃい」


 カナデが、少しずつ離れていく。わたしは体温の名残を残した指先を、胸元でゆっくりと振っていた。だけど……ふいに、手を伸ばしそうになる。


 嫌だ……カナデ、行かないで!


 言葉が喉元まで込み上がって来たとき、背中に手が添えられた。おぼつかなかった身体が支えを取り戻し、わたしは振り返る。若葉と日菜子、そして冬子がわたしの身体に触れていた。


「松波奏……安心して行ってこい! 浮気したら承知しないぞ!」


「奏ちゃん、美奈ちゃんのことは私たちに任せて! 大丈夫だよ!」


「松波さんほど春日さんに好かれる自信はないけどね……でも、仲良くしたいって思ってる……!」


 カナデは立ち止まったまま、思い思いに叫ぶ三人のことを目を丸くして見つめていた。何度か瞬きを繰り返し、いつも通りふっと笑う。カナデが「ありがとう!」と首を傾げると、その綺麗な頬から涙が零れる。わたしの背には、三つの掌。その温かさを感じながら、わたしは叫んだ。


「カナデー! 行ってらっしゃい! わたし、カナデのことが大好きだから……! ずっとずっと、大好きだよ! だから……待ってる! カナデの帰りを、待ってるからね……!」


 喧騒の中、わたしの声が響き渡る。通行人が驚いて、ちらちら見られている気配を感じたけれど……そんなのは、もう気にならない。わたしの瞳には、ただカナデだけが映っていた。カナデはわたしを見つめたまま、何かを噛み締めるように目を細めた。そしてそっと微笑んで、チケットを握りしめながら小さく駆け寄ってくる。少しだけ困ったように眉をひそめて、空いていた手でわたしの顎を持ち上げた。


 微かに唇が触れた瞬間、胸の奥で何かがふわりと溶けた。カナデの体温と香り、ほんのわずかな震えさえも、わたしの世界を満たしていく。


 世界で一番愛おしいひと。世界で一番、離れたくないひと。それなのに、今……わたしは背中を押さなくちゃいけない。


 まるで映画のワンシーンのように、時が止まる。わたしたち以外のすべてが遠ざかって、音も色も霞んでいく。だけど、唇を離した瞬間に、それは一気に現実へと引き戻された。時計の針が、再び進み出す。


「……ミナ、愛してるよ」


 その言葉が、静かに空気を震わせる。わたしは言葉を失って、カナデだけを見ていた。


「ありがとう。……行ってきます!」


 強気な笑顔を見せつけて、カナデはわたしから離れていく。天に掲げた右手には、わたしの指輪が輝いていた。もう片方の手は、きっと見えない音を抱いている。トランペットを持たない今でも、カナデの掌にはわたしの大好きな音楽が宿っていた。


 保安検査場に進んでいったカナデは最後にちょっとだけ振り返って、確かに笑う。夢を追って旅立つカナデの姿は、あまりにも眩しかった。わたしは頷き、笑顔で手を振り続けた。

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