第四十二話 君への誓い(3)
ついに、その日が来てしまった。カナデが旅立つ日の朝は思ったよりも静かで、春の空気が暖かかった。街路樹の桜の蕾は開花の瞬間を今か今かと待ち焦がれ、もう数日後にはきっと花が咲くだろう。
出発する時間を教えてくれたから、わたしはそれに合わせてカナデの家に向かう。玄関の扉を開けたカナデは大きなスーツケースを持っていて、背中にはいつもの楽器ケースを乗せていた。玄関先では、カナデのお兄さんが心配そうに眉をひそめて立っている。
「おい、奏。……本当に大丈夫なのか? お兄ちゃんが車で送ってやるけど」
「だから、いらないって言ってるじゃん。ウザ過ぎ。いい加減にして。……もう子供じゃないんだから」
カナデがうんざりしたようにしっしと手を振ると、お兄さんは言葉を失っていた。「……そうだよな」と噛みしめるように呟き、小さく頷く。お兄さんはわたしと目を合わせて、「美奈ちゃんも、ありがとう」と笑ってくれた。
「……兄貴ったら、本当シスコンなんだから。ミナと二人で電車で行くって言ってるのに、空港まで着いて行くってしつこいし。ありえないよ」
扉を閉めたカナデは少しだけ寂しそうな顔をしながら家を振り返り、静かに前に向き直った。わたしはその横で、カナデの引くスーツケースの車輪の音を聴いている。その揺れる音を聴いていたら、無性に何かしてあげたくなって……カナデの服の裾を、そっと掴んだ。
「……ねえ、カナデ。わたしにも荷物……あっ。楽器ケース。最後に、楽器ケースを背負わせてほしいな」
「えっ? そんな、気にしなくていいのに。……でも、そうだな……じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」
立ち止まったカナデは楽器ケースの肩紐から腕を抜き、わたしは両手で抱きしめる。三年間、ずっと見守ってきたこの背中。ようやく触れたのに、またすぐに離れてしまう——そう思うと、今にも泣いてしまいそうだった。両手に伝わる重みの中には、まるでわたしたちの思い出が詰まっているみたいで。ぐっと抑えて、わたしはケースの中身に話しかける。
「……“ミナ2号”、カナデのことを……どうかよろしくね。わたしの代わりに、カナデをちゃんと支えてあげて。そして……世界一格好いい音色を、響かせてくるんだよ」
肩紐に腕を通し、ぎゅっと握りしめる。背中に冷たいプラスチックの感触を感じながら、わたしは再び歩き出した。カナデは何かを言いかけたようにわたしを見て、代わりにそっと微笑んだ。道中わたしたちはいつもより言葉少なで、ぽつりぽつりと零れるように会話を交わすだけだった。カナデに伝えたいことは、沢山あるはずなのに。上手く言葉が出てこなくて、わたしは視線を下に向けることしかできない。カナデも少しだけ俯いて、時折わたしの手を撫でるだけだった。
二人で静かに電車に乗って、空港を目指す。車窓の向こうでは地元の街並みが遠ざかっていくのに、わたしたちの時間だけが、ゆっくりと進んでいるようだった。こっそり繋いだ指先はほんの少しだけ震えていて、わたしはそれを包み込むだけ。もうすぐカナデが、いなくなる。覚悟はとうの昔にしていたのに、いざ直前になってしまうと……わたしはただ、何かを飲み込むように、堪えているだけだった。
あっという間に空港に着き、カナデは搭乗手続きを進めていく。ベルトコンベアにカナデの荷物が吸い込まれていく様子を眺めていると、ああ、本当に行っちゃうんだと、途端に実感がわいた。すっと血の気が引いて、わたしは両手をだらんと落とす。カナデの背中を見つめたまま、わたしはその場に凍りついていた。そこへ、不意に誰かが後ろから飛びついてきて、息が詰まりそうになる。
「おーっす、美奈氏! 見つけたぜい。もう泣いてるんじゃない? 大丈夫?」
ひときわ明るい声が響いて、辺りの空気がぱっと変わった。いつも通りの軽い調子の声と共に、若葉が背中に飛び乗っていた。喉元から変な声が漏れて振り返ると、日菜子と冬子が立っている。
「三人とも……」
腕を離した若葉が二人の隣に並び、歯を見せつけるように笑う。「うちらも松波奏の門出を、見届けようと思ってね」と呟いて、わたしの身体をとんと叩いた。
「あれっ。若葉と日菜子と……桜木さんもいる。わざわざ来てくれたの? ありがとう」
驚いたように目を瞬かせたカナデが、わたしたちの前まで戻ってくる。肩の荷物は減っているのに、その姿はどこか遠く感じて……胸がざわつく。そんな中、若葉がカナデの肩をとんっと小突いて、楽しげに笑った。その横で、日菜子は少し寂しげな表情のまま、じっと様子を見つめていた。
「……奏ちゃんがいなくなっちゃうの、寂しいね。美奈ちゃん、本当に……うっ……」
声を詰まらせた日菜子の両目から、大きな涙が零れ落ちた。わたしが慌ててその身体を抱きしめると、カナデは困ったように笑っていた。揺れる日菜子の柔らかな背中を、そっとさすって落ち着かせる。
「……いや、日菜子がそんなに泣いてどうするの。松波さんの恋人の、春日さんが泣くのは分かるけど」
「だって冬子ちゃん! 奏ちゃんも、美奈ちゃんも……うう……」
わたしたちのために大泣きする日菜子に「ありがとう」と笑って、カナデと顔を見合わせる。日菜子の涙のおかげで、今だけわたしの涙は笑顔に変わっていた。
「松波奏、向こうでも達者でな。美奈氏のことは……うちらに任せときなよ。柊氏と一緒に、オタクに染めておいてやんよ。松波奏がいない間、楽しもうぜ~」
若葉はわたしの首に腕を回し、はっはっはと機嫌良く笑っている。今でもだいぶアニメを見ろと脅されているのに、これ以上やられるの……? 苦笑しつつも、その優しさが胸に沁みる。若葉がわたしの寂しさを紛らわすためにやってくれているのは、見て欲しいアニメ作品リストを受け取った時から分かっていた。
「春日さん、無理しなくていいからね。でもまあ……私も、今度お勧めの小説とか漫画を持ってくるよ。気が向いたら、読んでみて」
冬子は視線を外しながらも、頬を掻いてこんなことを言ってくれた。最近は冬子ともだいぶ仲良くなれてきて、少しだけ素直じゃない優しさが嬉しかった。恋人のカナデに気を遣っているからなのか、呼び方は相変わらず春日さんのままだけど。
「……若葉ちゃん、冬子ちゃん。ありがとう……楽しみにしてる」
若葉に肩を抱かれたまま、二人の顔を見てお礼を言う。二人は満足げに微笑んで、泣いていた日菜子も涙を拭って顔を上げた。
「奏ちゃん! ……私も、これからもずっと美奈ちゃんと友達でいたいって思ってる。だから、安心して行ってきて。美奈ちゃん、大学生になっても仲良くしてね。一緒にさ、甘いものとか食べに行こう?」
わたしの手を取って、日菜子は両手で包み込む。涙で濡れた優しい瞳に見つめられ、ちょっとだけどきりとしてしまう。わたしは頷き、日菜子に笑い返した。
「……三人がそう言ってくれるなら、安心だ。本当にありがとう。ミナのこと、任せたよ。どうか……よろしくね」
「まっかせろい! 美奈氏が浮気してたら、速攻松波奏に連絡入れてやんよ」
縁起でもない若葉の言葉に「ちょっと!」と突っ込むと、カナデが声を上げて笑い出した。浮気なんて、そんな、滅相もない。少しだけむくれてみせると、若葉は目を細めてわたしを見る。
「まー美奈氏は、昔から松波奏にべた惚れだもんな。そうそう浮気はしないか。松波奏も松波奏で、美奈氏のこと超好きだし……バカップル過ぎて、見てるこっちが恥ずかしいよ。そんな二人が四年間でどうなるのか……私にも、見届けさせてくれよ」
声のトーンを落とした若葉が、くるりと背中を向ける。小さな背中を僅かに震わせて、息を吐くように静かに笑った。
「……じゃ、またな。松波奏。絶対、ちゃんと帰ってこいよ」
背中を向けたままの若葉は、日菜子と冬子に手を伸ばす。二人の服をぐっと掴み、突然調子よさげに笑い出した。
「じゃー後はお二人で。日菜子氏と柊氏~アイス食べに行こうぜえ」
ぐいぐいと服を引っ張る若葉に、冬子が「はあ?」と声を上げる。日菜子は頷いて、引っ張られながらも片手を振った。
「奏ちゃん。私も美奈ちゃんと一緒に、奏ちゃんの帰りを待ってるから。頑張ってきてね!」
にこやかに笑う日菜子に、カナデは頷く。そのまま日菜子と冬子は若葉に引かれていき、「松波さーん、気を付けて行ってきてねー」と冬子が引きずられながら声を上げていた。