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第四十二話 君への誓い(1)

 洗面台の前に立ち、鏡に映る自分を静かに見つめた。春の始まりを告げるような、柔らかい生地のブラウス。脚を動かすたびに揺れる膝丈のスカートには、小さな花が咲いている。桜色のグロスを塗った口元に右手を持っていくと、薬指ではピンク色の石が輝いていた。


 脇に置いていたスマートフォンが小さく震える。点灯した画面には、卒業式の看板を背にした二人の姿が映っていた。涙でぐしゃぐしゃになりながらも笑うわたしの背中を、カナデが呆れた顔をして撫でている。覗き込んで通知を確認すると、『ついたよ』という文字が浮かんでいた。


「……よし」


 もう一度鏡の自分と目を合わせて、ゆっくり頷く。スマートフォンを握りしめて、慌てて玄関に向かって行った。


 慣れないヒールのパンプスに足先を突っ込み、玄関の扉を開ける。カナデがいつもわたしを迎えに来るときに立っている場所に、今日もカナデが立っていた。わたしの姿を見るなり、なんてことなさそうに片手を上げたけれど……この場所でカナデを見る機会は、もうしばらくないだろう。そう思うだけで涙が出そうだったけど、ぐっと堪えて笑顔を作る。


「……カナデ、お待たせ! わざわざ来てくれて、ありがとう」


「全然だよ。あれ、ミナ。なんか今日……雰囲気違わない?」


 指摘に笑い、カナデの前でくるりと回ってみる。三月の暖かな風が髪を靡かせ、伸ばした両手が弧を描く。そのまま両手でカナデの手をそっと掴み、顔を覗き込んだ。その拍子に、さっき付けたヘアオイルの甘い香りがふわりと漂う。


「……もうすぐ大学生だから。その、予行演習」


 わたしの言葉を受けたカナデはぱちぱちと瞬きをして、視線を逸らす。片手で口元を隠しながら、「化粧もしてるでしょ? 大人っぽくて、びっくりしたよ」と呟いた。


「えっ。本当? ……わたし、大人っぽく見える?」


「でも……見た目だけ、かな」


 カナデは手を下ろし、少し目線を落としてから……いつも通りの笑顔で、笑うように言った。


「……相変わらず、ミナは可愛いよ。すごく、可愛い」


 ははっ、と軽い笑い声が響いて、カナデはわたしの手を優しく握る。そっと引いて、「行こうか」と囁いた。


「……ちょっと、カナデ。見た目だけってどういうこと? ねえ」


「どういうことだろうね。……ミナはずっと、そのままでいてね」


 手を引っ張って問い詰めてみるけれど、カナデは微笑むだけで答えようとしてくれない。まったく、見た目だけ大人っぽいって……褒められているのかいないのか、よく分からない。小さく溜息を吐き出すと、カナデは楽しそうに笑っていた。


 手を繋いだまま、駅までの道を歩いていく。わたしの最寄り駅から電車に乗り込み、そのまま揺られて約一時間半。わたしたちは都会を通り過ぎて、東京の郊外の駅に降り立った。ホームに立ったカナデは、辺りを物珍しそうに見回している。


 改札を抜けると、小さなロータリーをぐるりと回って、どこか懐かしい雰囲気の商店街を進んでいく。八百屋の店頭には春キャベツがたくさん並んでいて、地元の主婦らしき客が真剣な眼差しで目利きをしていた。パン屋の店頭に掲げられた看板に目が吸い寄せられ、辺りは香ばしい香りが漂っている。北欧風の小さなカフェを覗き込むと、若い女性客でにぎわっていた。


 商店街を十分ほど歩いていくと、住宅街の真ん中に、不意に広がる緑の空間。洒落た塀に囲まれていて、ぱっと見は大きな公園のようだった。けれど——これが、春からわたしが通う大学だった。


「……これが、ミナの大学。良い所だね」


 塀の向こうを見つめながら、カナデが呟く。わたしは頷いて、開放されていた校内に足を踏み入れた。校門を潜ると眩しいくらいの青空の下、真っ白な校舎が静かに佇んでいる。左右に広がる芝生はまるで絨毯のように柔らかく、風にそよぐ緑が優しく目をなでる。一直線に伸びた小道の両側には丸く刈り込まれた木々が並び、空を映す噴水の水面が、きらきらと陽の光を跳ね返していた。


 遠くから聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、木々の葉がこすれ合うかすかな音だけ。まるで世界が一瞬深呼吸をしているような、そんな静かで穏やかな時間だった。


 これからわたしは、一人でここまで通ってくる。カナデのいない四年間を、わたしはここで過ごしていく。一体どんな大学生活が、わたしを待っているんだろう。


「……なんか、ちょっとミナっぽいね。ここが第一希望だったんだっけ」


「うん。自然が多くて、人もそんなに多くなくて、女子大だし……雰囲気が、いいなって思って。それに……勉強してみたいことも、あったから」


 芝生の広場に置いてあった石のベンチに二人で座って、足を伸ばす。硬いパンプスの生地に包まれた指先を動かすと、じんわりとした痛みが身体に広がった。大人っぽいって大変だ。だけど不思議と、嫌じゃなかった。


「そっか。結局教えてくれなかったけど……ミナは何か、夢があるの?」


 カナデが眉をひそめながら、わたしのことを覗き込む。カナデは今までも何度か「ミナは何の勉強をしたいの?」と聞いてきたけれど、わたしは照れくさくて、いつも誤魔化すだけだった。だけど、今日なら。だって今日は……カナデがいなくなる前の、最後のデートだから。わたしは息を吸い込んで、意を決して口を開く。


「……わたしの夢はね、カナデ。……カナデなんだよ」


 黒い瞳を見つめながら、真面目に言ってみたけれど……自分で言っておいて、思わず笑ってしまった。だって、こんな真っ直ぐな想いを恥ずかしげもなく言葉にしたのなんて、初めてだったから。小さく肩を震わせていると、カナデは何も言わずにただ不思議そうな顔をしていた。


「……わたしね、やりたいことって、何もなかった。勉強も特別できるわけじゃないし、他に何か秀でた才能があるわけでもない。本当に……わたしって、何もなくて。こんなわたし、何もできないって思ってた。だけど……カナデに出会って、トランペットを教えてもらって、一緒に楽団に入って……楽しかった。それでね……ちょっとだけ、分かったの」


 膝に置いていた手を握りしめて、力を込める。カナデと出会ってからの日々を思い出すと、懐かしくて……全てが恋しくて……今にも泣いてしまいそうだった。喉元に熱いものがこみ上げてきたけれど、わたしは気付かないふりをした。ただ、前だけを見つめて。春の日差しに輝く緑を眺めながら、涙が溢れないように上を向く。


「地味かもしれないけど……わたし、市役所の人になろうかなって、思ったの。それで、カナデが好きだって言っていた、わたしたちの市民楽団みたいな……地域の居場所を、大切にしていきたい。支えていきたい。わたしはまだまだ初心者だけど……カナデが教えてくれた、音楽が好き、楽しいっていう気持ちを……地域にもっと広げて、いろんな人に知ってもらいたいって思ったんだ。だからね、四年間……わたしは頑張って、勉強するよ」


 誰にも言っていなかったわたしの気持ちを、ここで初めて言葉にする。言ってしまったらわたしはもう後戻りができなくて、これで公務員試験に落ちてしまったらどうしよう。途端に不安が襲ってくるけれど、かぶりを振って思考を紛らわす。


「……そのために、まずは楽団の執行役員をやってみようかと思って。団長に言ったら、四月から執行部に入れてもらえることになったの。ほのかちゃんも一緒にやってくれるっていうから、心強いよ。わたし……カナデと離れている間、カナデの好きなものを守れるように、頑張るから。だから……わたしの夢はね、カナデが教えてくれたの。ありがとう」


 カナデの手を両手でそっと包み込んで、瞼を落とす。カナデはずっと、わたしの道しるべそのものだった。これから会えなくなってしまっても、わたしはその背中を追い続ける。わたしが死んでしまうまで、どうかわたしの道を照らし続けて。


 祈りを込めて瞼を開けると、カナデは声も上げずに泣いていた。大きな瞳から零れる涙が光を受けてきらきらと輝き、綺麗な頬を濡らしている。


「……やだ、カナデったら。泣かないでよ」


 わたしは苦笑しながら、鞄の中からハンカチを探り出した。差し出すと、カナデは俯き、少しだけ照れたようにそれを受け取る。カナデは震える指先で涙を拭い、「やっぱり、ミナはすごいよ」と笑ってくれた。だけどその笑顔の端から、また静かに雫がこぼれ落ちた。


 わたしは泣き顔のカナデを見つめながら、もう一度手をぎゅっと握りしめた。この手の温もりを、わたしはずっと覚えている。これから挫けそうになる度に、きっとこの日を思い出すだろう。それだけで……わたしは夢に向かって、頑張れそうな気がするんだ。


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