第四十一話 この時間が終わるまで(2)
時計を見て「そろそろ寝ようか」と言ったカナデが、間接照明を残して部屋の電気を消灯させる。カナデがうすぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされながら、ベッドに足を乗せてわたしの隣に戻って来た。マットレスが小気味よく跳ねて、カナデは小さく笑っていた。
「ふふ……今日は楽しかったね。……ミナと一緒に旅行に来れて、幸せだよ。ありがとう」
顔をこちらに向け、カナデは囁く。目線が合うと額を軽くくっつけて、両腕でわたしを包み込んだ。あたたかな体温が伝わってきて、心の奥からじんわりと優しく満たされていく。わたしは瞼を閉じて、カナデの身体に身を委ねた。
「そんなの、わたしもだよ。幸せ過ぎて……どうしよう。ずっと、このままだったらいいのに」
「ほんとにね。……でも、まだ明日もあるからさ。明日もきっと、楽しくなるよ」
わたしが両手を背中に回すと、カナデは額を離し、今度は顔を胸元に埋めてきた。わたしを抱く腕の力をぐっと強めて、カナデは顔を隠したまま、大きく息を吐き出している。その力の抜けた吐息に思わず笑って、わたしは片手で頭を撫でた。ちょっとだけ硬い髪の毛の感触が、わたしの胸をきゅんと締め付ける。つい気付かれないように顔を寄せ、その髪にそっと口付けてしまった。
「はあ……ダメだな、私は……。強くありたいと思うのに、ミナの前だと安心しちゃって……上手くいかない。甘えてばっかで、自分の弱さを思い知るよ。ミナは優しいから、どんな私でも受け入れてくれるかもしれないけど……もっと、強くなりたいと思う」
暗闇の中で呟かれたその言葉に、思わず一瞬手元が止まる。カナデはわたしにしがみつくように、両手に力を込めていた。その姿が、ただ、愛おしくて。わたしはカナデを抱き寄せて、また瞼を下ろす。
「……カナデは強いよ、大丈夫。それに、わたしはカナデの恋人だから……弱さも、甘えも、全部見せてよ。カナデのことが好きだから、カナデのことが知りたいの。だから……何も隠さなくて、いいんだよ」
「そうやって……また甘やかすようなことを言う。少しくらい、格好つけさせてよ」
ふっと息を吐いて、カナデの身体が離れていく。目を開けるとカナデは困ったような顔をして、眉をひそめていた。「今でも十分格好いいのに」と小さく笑うと、カナデの手元が頬に触れる。闇の中でカナデの大きな瞳だけが水気を含んで輝いていて、わたしを静かに見据えていた。
「……ダメだよ、私はまだまだ子供のままだ。こんなので、本当に大丈夫かな。……明日起きたら、また、頑張るから。だから、ごめん。今だけは……ちょっとだけ、甘えさせて」
頬に触れていた手が顎を持ち上げ、唇が塞がれる。静かで、優しいキスだった。ふたりの呼吸がふっと止まって、部屋の空気が少しだけ張り詰める。カナデの体温を感じながら、そんなに頑張らなくても大丈夫なのに、と苦笑した。
でも……カナデは真面目で、真っ直ぐな人だ。きっと物心の付いたときから、いろんなことを頑張り続けていたんだろう。その真剣な努力が、トランペットの才能や飛びぬけた頭脳に直結している。わたしの緩さを分けてあげたいと思うけれど、きっとカナデはそれを許さない。本当にストイックなんだから。わたしはカナデの背中に手を回し、「頑張り過ぎないでね」と呟いた。
それから、わたしたちは言葉を交わしながら何度も抱き合ったり笑い合ったりして、気が付けば部屋には明るい朝日が差し込んでいた。「やば、もう朝……」とカナデが苦笑いし、バスローブを羽織ってカーテンを開ける。途端にカーテンの向こうから光が差し込んできて、思わず目を細めた。カナデは少しだけ寂しそうな顔をして、窓から見える海を見つめている。わたしはベッドの上で身体を起こし、布団に埋もれながら乱れた髪の毛を整えた。窓の向こうで輝く海は鮮やかな薄い青色をしていて、今まで見たどんな景色よりも美しかった。
「徹夜しちゃったね……朝食食べたらさ、少し寝ようよ。だからそれまでは、もう少し」
穏やかな声が耳に届いて、気が付くとベッドに戻っていたカナデが両手を伸ばす。わたしの身体はカナデの体温に包まれながら、静かにマットレスの中に沈んでいく。外の海は、もうすっかり朝の色だった。