第四十話 星空のデュエット(5)
その後、カナデは「ミナも一緒に吹こう」と言って、わたしの手を引いてくれた。自分のトランペットを手に持って、カナデの真似をしてピストンを指に馴染ませる。一緒に何を吹こうかなと考えているカナデの服の裾を引っ張って、少し照れながらも笑ってみせた。
「あのね、カナデ……わたし、実は……ゲールフォースのソロ、暗譜してるの。自分でもやってみたいなって……ユズちゃん先輩に、こっそり楽譜もらってて……だから一応、間違えちゃうかもしれないけど……できるんだ」
わたしの言葉を受けたカナデは驚いたように何度か瞬きを繰り返し、顔を下ろして小さく笑った。「ほんと、ミナったら」と言ったその声に、どんな気持ちが込められていたんだろう。カナデの片手が頭に伸びて、そのままわしゃわしゃと撫でられる。カナデは黙ったまましばらく頭を撫で続けて、わたしに笑いかけた。
「……分かった。じゃあ、ミナ……一緒に吹こう!」
手を離し、カナデは掌をわたしに向ける。わたしは頷いてその手を取り、二人でトランペット片手に砂浜を駆けだした。笑い声が波の中に響いて、わたしたちは手を離す。
二人並んで、夜の海を背にして見つめ合う。わたしの手には、カナデ2号。隣には、カナデ本人。砂浜を包む静寂を破るように、わたしたちは同時に、ゆっくりとトランペットを構えた。
息を吸う。風と星と波の匂いを胸いっぱいに取り込んで、わたしは目を閉じる。先に音が出たのは、わたしだった。カナデが、ほんの少しだけ譲ってくれた。緊張で指先が震える。だけど、カナデがそばにいる。それだけで、怖くなかった。
音をひとつ、吹き出す。たどたどしくても、音は確かに闇の中へ届いていく。少し遅れて隣から、カナデの音が重なる。それはまるで、わたしの不安を包み込むような、柔らかで力強い音だった。
ふたりの音が、夜空の下で混ざっていく。海風が楽譜の代わりになり、星が観客になり、波が拍子を刻む。ミスをしても、走っても、遅れても、不思議と楽しかった。ずっとこのまま、曲が終わらなければいい。
中盤、ユニゾンで駆け上がるフレーズを迎えたとき、わたしたちは自然と、顔を見合わせていた。ふたりして、ただ笑っていた。
ああ、これが音楽なんだ。誰かと繋がるためのもの。大好きな人と、心をひとつにするためのもの。
カナデの音が、わたしの音を引っ張っていく。わたしの音が、カナデの音を支えていく。どこにも行き着かなくていい。ただ、夜の空に、音を響かせていたかった。
フィナーレに向けて、音が高く跳ね上がる。ふたりの音が、星空のてっぺんに届いた気がした。最後の音を吹き終えたあと、しばらくの間、わたしたちはそのまま立ち尽くしていた。余韻が、胸の奥まで震えていた。やがて、カナデが息を吐いてわたしを見た。
「……ミナ、最高だったね」
その言葉に、わたしは笑って頷いた。夜空の下、ふたりで奏でたソロ。カナデ以外、誰に届かなくてもよかった。きっとそれは、音楽の本来の在り方とは違うのかもしれない。でも今だけは、わたしだけの“音”でよかった。
この瞬間が永遠だったらいいのにと、心から思う。永遠なんてないことは、知っている。だからせめて、もう少しだけ——この音が、夜空に溶けるまで、ふたりで。