第四十話 星空のデュエット(4)
夕食を終えて部屋に戻ると、カーテンを開けたままの窓の向こうはすっかり夜に染まり、昼間見えていた海は闇に溶けていた。バルコニーに出て顔を上げると、宇宙の色をした空の中に、ダイヤモンドみたいな星たちが瞬いている。地元では絶対見れないその景色に、わたしの口から歓声が漏れる。星の輝きに見惚れていると、背後からカナデの声がした。
「ミナ、ちょっと外に行ってみない? 天体観測、してみようよ」
振り向くと、カナデがにこやかな顔をして立っていた。その両手にはカナデ自身の楽器ケースと、わたしの新品の楽器ケースが握られている。カナデが何をしようとしているのか何となく察してしまって、わたしは笑う。窓を閉めて、その腕に飛びついた。
ホテルを出て、昼間歩いた砂浜への道を歩く。木々に囲まれて電灯もない真っ暗な細い道を、カナデのスマートフォンの明かりが照らしていた。人気のないのを良いことに、腕に抱き着いていた力を強めてみた。カナデは軽く笑って、「怖いの?」なんて言っている。背の高い木が風に揺れて、闇がわたしに話しかけた。怖くないと言えば嘘になる。だけど……このまま、誰も来ないでほしいな。カナデと一緒なら、わたしはどこでも幸せだった。
砂浜にたどり着くと真っ暗で水平線は見えなくて、ただ波の音だけがそこに海があることを教えてくれていた。カナデは昼間座ったビーチチェアに楽器ケースを並べ、自分のケースの蓋を開けた。暗闇の中で、カナデの金色のトランペットが鋭く輝いている。マウスピースを付け、カナデがピストンを軽く指先で押して鳴らす。何度も見てきた、カナデがトランペットを吹く前の仕草だった。
わたしも自分のケースをそっと開いて、カナデに借りたトランペット……もといカナデ2号に手を伸ばす。冷たい金属の感触に、少しだけ身が引き締まる気がした。
「……ミナ。初めての定演のこと、覚えてる?」
トランペットを抱えたカナデが、首を傾げてわたしを見ていた。少しだけ照れくさそうなその仕草が可愛くて、胸が締め付けられる。「もちろん」と笑うと、カナデは頷く。
「あの時、ミナは……ゲールフォースを選曲した理由が、外国の星空の下で演奏する私の姿が思い浮かんだからって、言ってくれたよね。嬉しかったよ。大好きなミナが、私の演奏にそんな祈りを込めてくれたことがさ」
カナデは俯いて、右手でピストンを弾き続けた。無造作に動く指先の滑らかな動きが、わたしの心臓を高鳴らせる。カナデは三本の指で全てのピストンをぐっと押し、顔を上げた。
「だから、少しきざすぎるかもしれないけど……ミナの夢を、叶えたいなと思って。星が綺麗に見えて良かったよ。ここは外国じゃないけど……それはちょっと我慢して」
照れたように頬を掻くカナデに、カナデ2号を置いて思わず両手を伸ばして抱き着いてしまう。そのために、トランペットを持ってきてくれてたなんて。わたしがあの時曲に込めた願いを、本当に叶えようとしてくれるなんて。本当に、カナデはきざなんだから。そんなカナデのことが、たまらなく愛おしい。頬を寄せてありがとうと言い続けると、「ミナったら、まだ演奏してないんだから。失敗したらどうすんの」といつもの調子で笑われた。
波の音だけが響く暗い海辺で、カナデが金色のトランペットを抱えてわたしを見つめていた。カナデは静かに楽器を構え、一度だけ小さく息を吐き出す。瞼を下ろしたカナデはまるでトランペットにキスするみたいに、優しくマウスピースに口付けた。海風に髪を揺らしながら、星の瞬きが、その輪郭を柔らかく縁取っている。
そして、吹き出された音は……まるで夜空を切り裂く、風のようだった。
カナデのトランペットから放たれた一音は、冷たく澄んだ闇の中を、光のように真っ直ぐに伸びていった。静寂に満たされていた海辺に、ただひとつの旋律が立ち上がる。低く、温かく。波の音と重なるように、ゆるやかな導入部が夜を震わせる。メロディは風のように移ろい、まるで遠い場所から物語を連れてきたみたいに、わたしの胸を震わせた。どこまでも穏やかで、どこまでも寂しくて……。
でも確かに、わたしにだけ届くように、演奏されている音だった。
目を閉じると、音が星と重なった。二年前の定期演奏会でカナデのソロを聴いたときの、あの一瞬を思い出す。スポットライトを浴びながら音を奏でたカナデの姿が、あの頃は届かないほど遠く見えて、まぶしくて、どうしようもなく好きだった。
だけど今は、目の前で……わたしのためだけに、吹いてくれている。あの時夢に見た情景が、いま、本当に叶ってしまっている。
カナデの指が青いピストンを滑るたびに、音が波に溶けていく。金色のトランペットが星の光を反射して、まるで夜空のひとつになっているようだった。
風のようなフレーズがひとつ終わり、クライマックスに向けて旋律が跳ね上がる。音が空へ、空へと登っていく。高らかな音が天球の頂点に届いた瞬間、星がひとつ、流れた気がした。
息を吸う音、ピストンのきしむ音、マウスピースと唇が擦れる微かな音。すべてが愛おしくて、胸が痛いくらいに苦しい。これ以上好きになれないと思っていたのに、また好きになってしまう。
最後の音が、星の海に吸い込まれるように消えていった。風が止まり、音が止まり、世界がふたたび静寂を取り戻す。
わたしは何も言えなかった。言葉なんて、とてもじゃないけど、追いつかなかった。ただ、カナデの元へ歩み寄り、何も持たずに、その身体を抱きしめた。
「……ミナ、愛してるよ」
カナデはどこか掠れた声で囁いて、片手でわたしを抱き寄せた。わたしはその腕の中で何度も頷き、ただカナデの服を濡らしていた。