第四十話 星空のデュエット(3)
海辺のホテルに着き、チェックインを済ませて部屋のドアを開けると――思わず、足が止まった。窓の向こういっぱいに、眩しいほどの青。
「うわあ……すごい……!」
思わずこぼれた声と一緒に、わたしは引き寄せられるように窓辺へ向かう。鍵を回してバルコニーの扉を開けると、潮の香りを含んだ風がふわりと頬を撫でた。
目の前には、空と海の青がまじり合う南の景色。濃くて、広くて、どこまでも続いていて――くっきりとした水平線の上には、白い雲がゆったりと浮かんでいた。ホテルのまわりに広がる緑の木々が、風に揺れてさざめいている。その音に包まれながら、わたしはただ、遠くまで続く青を見つめていた。照りつける太陽に目を細めていると、背後からカメラのシャッター音が響く。
「ちょっと、カナデ! ……今、何か撮ったでしょ?」
慌てて振り返ると、部屋にひとつだけのベッドに腰掛けたカナデがスマートフォンを構えている。またシャッターが切られる音がして、わたしは思わず視線を逸らした。視界の端に映るダブルベッドが妙に気になって――気持ちを悟られないように、何気ないふりで近寄っていく。
「カナデったら……。ねえ、海に行ってみようよ。プライベートビーチがあるんでしょ? サンダル持ってきたから、履き替えようかな」
そう言ってカナデの腕を引っ張ると、スマートフォンを放り投げたカナデがすっと立ち上がり、何も言わずにわたしを抱きしめてきた。カナデの髪の毛が頬に触れ、くすぐったくて笑ってしまう。
「ミナ、さっき……ホテルに着いたら抱きしめても良いって、言ってたからね」
「やだ、覚えてたの? もう……」
肩口で溢したカナデに苦笑して、わたしはそっと目を閉じる。開けっ放しの窓からは暖かな風がそよいでいて、部屋のカーテンを揺らしていた。太陽だけが差し込む静かな部屋の中、わたしたちの息遣いが、風の音とまじって小さく揺れていた。
その後、わたしはカナデの手を引いて、ホテルの目の前にある砂浜にやって来ていた。海開き前の静かな浜辺には誰の姿もなく、ただ穏やかな波音だけが、寄せては返していた。白い砂がさらさらと足先を撫でて、なんだかこそばゆい。二人で波打ち際に近寄って、わたしは透明な波に足を浸す。思っていたよりも水温は温かくて、蹴り上げてみると飛び跳ねた水しぶきが太陽の光を反射して、宝石のように煌めいた。思わず声をあげると、砂浜に立ったままのカナデが眉をひそめてわたしを見ていた。
「ミナ……そんなに面白い? まあ、別にいいけど……」
その表情がなんだか可笑しくて、わたしは笑いながら両手で水を掬い、思いきりカナデに向かって飛ばしてみた。水がぱしゃりと跳ねて、カナデのズボンにしずくが散る。
「やったな……」
すまし顔のままそう呟いたカナデは、ふっと口角を上げるとそのまま勢いよく波の中へと飛び込んできた。両手で水を掬い、空へと高く掲げる。太陽の光を受けて舞い散るしぶきが、まるで小さな祝福のようにわたしたちの間に降り注いだ。
「やだ! カナデ……! びしょびしょになっちゃったじゃん、やり過ぎでしょ……!」
「あはは! ……結構やってみると、面白いもんだね! もう一回!」
ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、わたしたちは子どもみたいにはしゃいでいた。もう大人になるというのに――服が濡れるのも気にせず、お互いに何度も水をかけ合って、笑い声が浜辺に弾ける。気付けばわたしのワンピースの裾はすっかり濡れてしまっていたけれど、そんなことはどうでもよくなるくらい、今この瞬間が楽しかった。
しばらく馬鹿みたいに水をかけ合って、笑い疲れて服もすっかり濡れてしまったわたしたちは、波打ち際に並ぶビーチチェアに身体を預けた。頬に風が当たり、目を閉じると、近くの椰子の葉がさやさやと揺れる音が耳に優しく届く。静かな浜辺、澄んだ空気、美しい海、そして――隣にはカナデがいる。こんな風に、何も考えずに笑い合える時間がどれだけ貴重か。旅の終わりが、そしてその先の別れが、もうすぐそこに迫っているからこそ……今が、かけがえのない宝物のように思えた。風にほどけかけた髪をそっと押さえると、カナデがすぐ隣でわたしの髪に指を通した。
「……ほんと、幸せだな」
そっと隣を見ると、カナデはわたしの横で、夕焼けに染まり始めた海を静かに見つめていた。わたしは何も言わずに手を伸ばし、カナデの手に自分の指を絡めた。ふたつの手がそっと寄り添い、絡んだ指先が確かめ合うように動く。ぎゅっと結ばれたその手が、心の奥に灯をともしてくれた。
夕食は、ホテルのテラスでのバーベキューだった。色とりどりの野菜と大きな肉が、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている。こんなにたくさん食べられるのかな……と思いながら、カナデと一緒に並んで食材を焼いていく。
「バーベキューくらいだったら、料理が出来ない私でもできるから。でもまあこれから、多少練習してみようかな……。私は花嫁ってキャラじゃないけど、ミナのために花嫁修業……やってみるかあ」
竹串に刺さった肉をトングで転がしながら、カナデがこんなことを言い出した。わたしはつい吹き出して、カナデのことを見つめてしまう。
「花嫁修業って……カナデ、何言ってるの? そんなのしなくても、全然大丈夫なのに」
「いや、ミナに甘えてばっかじゃ愛想尽かされるかもしれないじゃん。多少、ミナを支えられるようになっとかなきゃね」
少しだけむくれたように言うカナデが可愛くて、わたしはまた笑ってしまった。カナデが花嫁修業なんて――なんだかちょっと似合わないかも。眉をひそめながら一人台所に立つカナデを想像し、あまりの愛おしさに、胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。
「そんなの……愛想尽かすなんて、あるわけないでしょ? わたしのことは気にしないで、ちゃんと音楽の勉強をしてきて。花嫁修業は、わたしが頑張るから」
そう言いながら、網の端で焼いていた野菜をカナデのお皿にそっとよそってあげる。カナデは「やば、野菜のこと忘れてた」と言いながら、相変わらず肉をくるくると回していた。
焼き上がった食材をカナデのお皿に盛っていると、「ミナももっと食べなきゃダメだよ」と、カナデが負けじとわたしのお皿に山を作り出した。わたしが困ったように視線を逸らしていると、カナデはお箸でそれをつまんで、わたしの口元に差し出してくる。
もう、こんなの断れるはずがない。カナデもそれを分かっていて、何度も何度も食べさせてくる。おかげでわたしの下腹はすっかり膨れてしまって……。絶対にカナデに気付かれないように、ぐっと力を込めてひっこめた。




