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第三十九話 君のための金色の音(4)

 幕が下り、楽器も人も消えたステージは、深い眠りについているみたいだった。がらんとした誰もいない客席に座り込んで、間接照明に照らされた舞台を眺め見る。


 さっきまで向こう側にいたなんて……なんだか信じられないな。人気のない会場に、先程の音の余韻が熱みたいに残っている。天井を貫いた、音の矢の残響が。消えてしまうのが名残惜しくて、わたしはつい手を伸ばしそうになる。だけど……その儚さを抱きしめるように、わたしは胸元で掌を握りしめた。


 会場の重い扉が開く音がして、視線をそちらに向ける。呆れたような顔をしたカナデが、楽器ケースと荷物を持って立っていた。扉の向こう側に見えた白い蛍光灯の光がなんだか浮世離れして見えて、目を瞬かせる。わたしはこの暗い海に、ずっと漂っていたかった。


「……ミナったら、こんなところにいた。もうみんな解散しちゃったよ。ほのかはこの後、予備校があるって帰って行った。今度、三人で打ち上げしようねって言ってたよ」


 暗いホールにカナデの声が反響し、靴音が響く。カナデは少しずつわたしに近づいて、隣の席に腰を下ろした。その瞳は舞台に吸い寄せられ、「へえ。こっちから見ると、こんな感じなんだね」と、珍しそうに目を細める。


 わたしは視線を下ろして、足元に置いた楽器ケースを見つめていた。一年生の頃から借りている、カナデのトランペット。わたしはこの演奏会の後、自分の受験が終わるまで……トランペットから離れてしまう。大学生になっても、ずっと続けていくつもりだけど……カナデが託してくれたこの楽器を、わたしはどうしたらいいんだろう。


 わたしの目線に気付いたカナデが、同じようにしてケースを見つめる。ふっと息を吐いて、「その楽器も、すっかり使い込まれたね」と笑っていた。


「……ねえ、カナデ。このトランペット……」


 もう、カナデに返すよ。これからはカナデに頼らないで、わたしはわたしの力で、楽器を吹く。こんなに大切なものを、ずっと借りたままなんて……。わたしの気持ちにも、きちんとけじめをつけたいの。


 そう言おうと思ったのに、唇にそっと人差し指が添えられた。わたしは言葉を遮られ、目の前のカナデを見つめることしかできない。


「……ミナさえ良ければ、この子をまだ預かっていて。初心者用の楽器だから、もしかしたら物足りなくなっちゃうかもしれないけど。……ミナに、持っていて欲しいんだ」


 広い客席に、カナデの真っ直ぐな声が落ちていく。真剣な表情で見つめられ、わたしはぱちぱちと瞬きを繰り返した。そんなに真面目に言われてしまうと、返すことなんてできないじゃん。


 ふふ、と笑い声が漏れ、唇に置かれたままのカナデの指先を湿らせてしまう。カナデがそう言うのなら……わたしの足元にあるこの楽器は、もう「借りもの」なんかじゃない。わたしが選んだ音で、わたしの想いを吹くための、大切な一本だ。


「……分かった。この子と一緒に、カナデの帰りを待ってるよ。……今日から君は、“カナデ2号”だ。寂しくなったら、カナデ2号に話しかけるね」


「何その名前、別にいいけど。……そんなこと言ったら、私のトランペットにもミナのピストンボタンが付いてるし……私も“ミナ2号”って付けようかな」


 しばらく顔を見合わせて、どちらともなく笑いだす。高い天井にわたしとカナデの笑い声だけが反響して、わたしたち二人を包んでいた。うすぼんやりとした海の中、明るい声がちかちか光を放って反射する。


 ずっと二人で、ここにいられたらいいのにね。だけど、もう撤収時間は過ぎているし……団長たちに見つかる前に、この場所から出ないといけなかった。


「……じゃあ、カナデとミナ2号……そろそろ行こっか。ほのかちゃんと三人で打ち上げをする前に、カナデと二人で打ち上げしたいんだけど……どこかに連れていってほしいな」


 わたしは椅子から腰を上げて、床に置いていたカナデの楽器、もといカナデ2号を引っ張り上げる。掌をカナデに差し出して、悪戯っぽく笑って見せた。カナデはわたしの掌に手を伸ばし、よっと椅子から立ち上がる。軽い調子でミナ2号を背中に背負い、わたしの手を引っ張った。


「いいね。どこに行こうか。ミナと一緒なら、きっとどこでも楽しいね。……ミナ2号は、どこがいいと思う?」


 冗談っぽく背負った楽器ケースに話しかけるカナデを見て、笑ってしまう。「2号じゃなくて1号の方に話しかけてよ」とむくれてみせると、また笑い声がわたしを包む。さっきまで響いていた音楽の残像と重ねるように、ふたりの笑い声が音を奏でる。手を繋いだまま客席を歩き、重たい扉を一緒に押した。


 扉の向こうに広がる廊下は、驚くほど眩しかった。けれど、わたしの目が追いかけたのは、その光の中に立つカナデの背中だった。


 ふたりの笑い声が、最後の音を追いかけて消えていく。残されたその輝きは、きっと……わたしたちだけの、“金色の音”だった。


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