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第三十九話 君のための金色の音(3)

 深海のように真っ暗な闇が、わたしの眼下に広がっている。そして、頭上からわたしを照らすスポットライト。眩しくて、温かくて、つい目を背けたくなるけれど……わたしはその輝きから、目を離すことができない。


 譜面台に置いたままだったファイルを開いた瞬間、一瞬だけ目を疑った。譜面の余白に見慣れた筆跡で、小さな文字が書かれている。


『美奈へ 今まで一緒に吹いてくれて、本当にありがとう。そして、これからもよろしくね。美奈の奏でるトランペットの音が、世界で一番大好きだよ。美奈ならもう、大丈夫。 奏』


 知らない間にカナデが、こんなメッセージを残していた。一体いつ書いたんだろうと思いながら、その愛おしさに胸が詰まる。わたしは手を伸ばし、その文字をそっと指先でなぞった。こんなこと言われてしまったら、まだ演奏も始まっていないのに……もう泣いてしまいそうだった。


 ありがとうだなんて……そんなの、わたしの方なのに。カナデがくれたものは、言葉にできないくらいたくさんあるんだから。わたしと出会ってくれて、わたしに音楽を与えてくれて、私に“好き”を教えてくれて……そのすべてに、ありがとう。カナデのことが、大好きだよ。そして……これからもずっと、わたしの音が、カナデの隣にありますように。


 指揮棒が上がり、緊張の糸がぴんと張られる。カナデが貸してくれているトランペットを汗ばんだ手で握りしめて、一瞬だけ数席先のカナデに視線を向けた。カナデは姿勢を正して、真っ直ぐ前を見据えている。わたしも前に向き直り、指揮棒が下がる瞬間を見つめていた。


 曲が始まると同時に、わたしは駅のホームに取り残される。発車時刻を告げるベルが鳴り響き、軽快なメロディーが今か今かと列車が走り出す瞬間を待ちわびていた。夢追い人たちが乗り込んだ列車に、切符を持ったカナデが走って来る。その背中で揺れるのは、すっかり見慣れた楽器ケース。軽い足取りでホームから足を離し、乗車口にとんと飛び乗った。わたしはただその姿を見守るだけで、動くことができない。


 カナデが立ち上がる。自分の演奏個所を終えたわたしは横を向いて、その姿を見守っていた。眩しすぎるほどの照明が、カナデの白いワイシャツに反射していた。金色のトランペットが炎のように眩しく輝き、手が青いピストンに添えられる。カナデが息を吸い込むと同時に、音が跳ね上がった。


 跳ね上がった最初の音が、客席の空気を震わせた。カナデが“ちょっとだけ賭けている”と言っていた、ソロのパートが始まる。リズムセクションの刻む軽快なテンポに乗せて、トランペットが鮮やかに歌い出す。切符を片手に列車へ駆け込んだ少女が、見送りのホームに立つ恋人に振り返って笑いかける。そんな情景が浮かぶような……明るくて、晴れやかで、だけど少しだけ、寂しげな音だった。


 わたしの胸の奥が、きゅっと締め付けられる。カナデの音は、いつもそうだった。まるで言葉の代わりに心のすべてを吹き込むような――泣きたいほど眩しくて、優しくて、真っ直ぐで、温かい。まさにそれは、わたしの惚れた“金色の音”。


 高らかなフレーズがホールの天井まで駆け上がると、観客席の空気がふわりと沸いた。その瞬間、わたしは譜面を越えて、カナデの姿だけを見ていた。スポットライトに照らされたカナデの横顔は、まるで光に包まれた彫像のようで、今にも飛び立ってしまいそうなくらい眩しかった。


 音が一度、静かに沈み込む。カナデは瞳を伏せて、息を吸い込む。そして――放たれた音は、まるで翼だった。きらめきながら、空を切り裂くようなハイトーン。眉間にほんの少し皺を寄せて、カナデはトランペットを吹いていた。音に、祈りのような焦がれを重ねるように。あの瞳は……いま、どこを見ているんだろう。


 指先が踊り、音が弾け、会場の空気をすべて巻き込む勢いで、音楽は次の世界へと加速していく。わたしは、その流れに身を任せるしかできなかった。松波奏の恋人としてじゃなくて、わたしはただのひとりの聴衆だった。夢を追って羽ばたいていくカナデの背中を――演奏という名の別れの中で、見送っていた。


 “A列車で行こう”――それは、未来行きの列車。


 その車両に乗って、カナデはどこまでも行ける。どこまでも、高く、遠くへ。だから、どうか行ってきて。わたしは……この場所からずっと音を響かせて、カナデのことを想い続ける。だって、わたしの音はきっと――カナデに届くって信じてるから。


 カナデの吹くラストのフレーズが、天井へ矢のように解き放たれる。音が空へと舞い上がり、わたしの中で何かがほどけた。涙がこぼれる。でも、トランペットは止めない。


 この涙も、音に変えて。今、ここで響かせる。そしてこれからも、ずっと。あなたと出会えたこの音を、今日という奇跡を、わたしは永遠に忘れない。


 拍手に包まれるカナデが一礼する。やりきった表情で、わたしのことを見つめていた。視線が交わる。わたしは涙でぐしゃぐしゃのまま、笑いかけた。


 この瞬間の松波奏は、世界中の誰よりも眩しくて、格好良かった。そしてわたしは……世界一格好良い松波奏の恋人の、春日美奈だった。


「……カナデのバカ。惚れ直しちゃったじゃん……」


 涙を拭いながら、もう一度、カナデの姿を見つめた。ステージはまだ、終わらない。わたしの音は、まだ……ここにある。


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