第三十八話 君の音が届く場所(3)
どれほどの時間、抱きしめ合っていたんだろう。もうとっくに学校は始まっている時間で、わたしたちは三年生の初日から授業をサボってしまっていた。「不良の松波」と「狂犬の春日」なんて呼ばれていたわたしたちは、元々学校の中で浮いていた。なら、今日くらい……もういっか。涙でぼろぼろになった顔を見合わせて、酷い顔だねと笑い合う。
カナデはどこか大人びた表情をして、潮風に靡くわたしの乱れた髪の毛を掬った。揺れる髪を何度もさらさらと梳いていって、わたしの名前を呼ぶ。「ん?」と声を上げると、小さくかすれた声で「……ありがとう」と呟いた。
わたしたちの間を、風が通り抜ける。春の始まりを告げる柔らかな空が、ただ穏やかにカナデのことを照らしていた。カナデは俯き、何かを決意したような表情で身体を静かに引き離す。離れた両手が、わたしの片手をそっと包んだ。
「……ねえ、ミナ」
どこまでも優しい声が、波の音に溶けてわたしの耳に届く。何も言わずに笑いかけると、カナデの両手にぐっと力が込められた。
「……結婚しようよ」
「……えっ?」
唐突に投げられたどこか現実味のない言葉に、思わず変な声が出てしまった。冗談かと思ったけれど……カナデは僅かに頬を染めながらも、真剣な顔でわたしのことを見つめている。強い瞳に射抜かれたまま瞬きを繰り返していると、息を吸い込む音がした。
「……お互い大学を卒業したら、結婚しよう」
真顔のまま、そんな夢みたいなことを言うカナデに、思わず笑ってしまった。それでもその言葉を受けて、胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じる。カナデの手を包み込んで、少しだけ悪戯っぽく……どこか照れ隠しみたいに言ってしまう。
「もう、カナデったら……本気で言ってるの? ……誓える?」
「……本気だよ」
カナデは表情を変えないまま、わたしの喉元に手を伸ばした。ワイシャツの向こう側に隠したチェーンを引っ張って、繋がっていたペアリングに唇を落とす。
「……誓うよ。必ず、ミナの元に帰って来る」
真っ直ぐな声が心臓を突き刺して、わたしは言葉を失っていた。結婚なんて……。わたしたちはまだ高校生で、そんな話……まるで子供の夢物語だ。それに、わたしたちは女の子同士で、結婚なんてできないのに。カナデだって、そんなことは分かっているはずなのに。
「カナデ……」
わたしは口を引き締めて、カナデの緩んだ胸元を見る。白い素肌に少しだけ鎖が覗いていて、どきどきしながら手を伸ばした。指先がカナデの肌に触れ、鎖を摘まむとわたしと色違いの指輪が輝いている。
「……わかった。約束ね。カナデのこと、待ってるから……。帰ってきたら、わたしを……カナデのお嫁さんにして」
朝の光を浴びて、小さな宝石がふたりの未来をそっと照らしていた。銀の輪っかに唇が触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなって……恥ずかしくて、つい笑ってしまう。
高校三年生で、こんなプロポーズみたいなことを言うなんて。しかも、本当はできないのに。でも……今だけは、そんな未来を二人で一緒に夢見ていたかった。指輪に触れた唇の温度が、わたしたちの約束を静かに染み込ませていく。
わたしはカナデの手を取って、指先にそっと触れた。カナデは静かに笑って、手を握り返してくれる。波の音が、すべてを包み込むように響いていた。
未来の約束が本当に叶うかなんて、誰にもわからない。きっとこの手は、一度離れてしまうだろう。でも、大丈夫。わたしたちは、もう一度、必ず……繋ぎ直せると、信じている。