第三十八話 君の音が届く場所(2)
上履きのまま昇降口から逃げ出して、開いていた校門を通り抜ける。カナデがどこを目指しているのかなんて、分からなかった。高校前の道をひたすら走って、交差点を抜ける。海辺の公園の一番端、いつもカナデと練習に使う防波堤についたところで、息を上げたカナデはわたしの身体を離した。わたしはすっかり呼吸が乱れていて、手を離された途端、その場に座り込んでしまう。
「ミナ……ごめん……! 大丈夫?」
ぜえぜえと必死に息を整えているわたしの背中を、カナデが急いでさすってくれる。目から落ちてくる涙は走り過ぎたせいで出ているのか、もう何が何だか分からない。髪の毛もきっとボロボロになっていて、今のわたしは本当にみじめな姿だった。
「……もう……カナデは……! なんで、そんな……そんなふうに、優しくするの……!」
声を出すと、息が上がって喉がひりつく。息も、汗も、涙も、言葉も全部混ざって、とても酷い有様だった。こんなわたしを、カナデに見てほしくない。でも……どうすることも、できなかった。
「わたし、カナデの未来……めちゃくちゃにしてるのに……! やめてよ、優しくしないで……。わたし、カナデから卒業しようとしてたのに……! こんなんじゃ、離れられないよ……」
アスファルトの上に雫が落ちて、黒い染みを作っていく。涙も汗もぐちゃぐちゃで……とても、こんな顔じゃ向き合えない。両手で顔を覆い隠して、座り込んだままむせび泣いた。
朝の海辺に、防波堤に打ち付ける波の音と、わたしの嗚咽だけが響いている。カナデはただわたしを抱きかかえて、身体を優しくさすってくれていた。その掌のぬくもりが、どうしようもなく切なかった。
「ミナ……ごめんね……」
耳元に落ちたカナデの声が、また胸を締め付ける。今日のカナデは、なんだか謝ってばっかりだ。そんなこと、言ってほしいわけじゃないのに。わたしが……大好きなカナデを、苦しめている。わたしは、どうしたらいいのか分からない。カナデのことが好きなのに、本当に……愛しているのに。なんで苦しめちゃうんだろう。わたしたち、もう、だめなのかな。いっそ、出会わなければよかったの?
……そんなはず、ないのに。
こんがらがった頭の中で、マイナスな感情がどんどん渦巻く。だめだと分かっているのに、考えることが止められない。いっそカナデがわたしを拒絶してくれたら、どんなに楽なんだろう。だけど……。
このままじゃだめになる。わたしも、カナデも、きっと……。だから……本当は、わたしはカナデに伝えなきゃいけない。カナデが傷付くと分かっているけど、わたしはもう限界だった。
鉛みたいに重たい身体を、それでも足に力を込めて、なんとか立ち上がらせる。春の海風がスカートを揺らして、身体を撫でていたカナデの両手がそっと離れた。「ミナ、大丈夫?」という優しい声に顔を背けて、目の前に広がる東京湾をじっと見据える。水面は今日も穏やかに、小さく波打っていた。
「……カナデ、どうか……今から言うことを聞かないで。耳を、塞いでいて」
「えっ……?」
「いいから、耳を塞いでて!」
振り返らずに、わたしはただ海を見ていた。ごめんね、カナデ。こんなにも優しくしてくれているのに……。でも、もうこれ以上は……わたしがだめになっちゃうから。頭の中も、心も、全部壊れそうで……きっとカナデは、困ってしまうだろう。本当にごめん。どうか、許して。わたしの言葉を、聞かないでいて。
「塞いだけど……」と不審がるカナデの声が耳元に届いた瞬間、わたしは目を閉じた。潮風が頬を打つ。喉が震える。心がちぎれそうだった。一度、深く深く息を吸って――胸いっぱいに潮風を吸い込んで、言葉と共に吐き出した。
「……カナデのっ……バカーッ!」
その声は、いつもわたしが鳴らしているトランペットの音色より、どこまでも遠くに響き渡った。水平線を睨みつけて、啖呵が切れたように言葉を繋げる。
……もう、どうでもよかった。気持ちを殺してカナデの横で愛想笑いを続けるくらいなら、思いをぶつけてカナデに嫌われた方が、ずっといい。
「カナデと離れ離れになるなんて……嫌だよ! 寂しい……ずっとそばにいてほしいのに……! わたしはカナデの夢を、諦めさせることも嫌! だから……せっかくのチャンスなんだから……アメリカに行ってほしいって、思ってる! だけど! 会えなくなるのが、怖い……! 本当に応援してあげたいのに……苦しくて……わたし……カナデを縛りたくない! わたしのことは気にしないでって、笑ってあげたいのに……できない自分が、たまらなく嫌……! ずっとこのままでいさせてよ……大人になんて、なりたくない……!」
威勢が良かったのは最初だけで、わたしの言葉は波に呑まれながら、ただ潮の中に溶けていく。きっと耳を塞いでくれていたカナデがやって来て、わたしの横に静かに並んだ。両手をぎゅっと握りしめて、カナデは声にならない声を上げる。
「私だって……! 進学なんてしたくない! ずっと高校生のままでいたい……ミナと一緒にいたいと思ってる! だけど……ミナが“好きだ”って言ってくれた、あの音……自分の音が、どこまで届くか挑戦したい! 本当は、医学部なんて行きたくないんだ……! でも……私は……!」
そこまで言って、カナデは言葉を止めた。はっとしたように目を見開き、その両目は海の向こう側に吸い寄せられる。ああ、やっぱり……。わたしは息を止めて、両手でカナデの身体を勢いよく押した。
「……行ってきてよ! そうやって、わたしのためにどうしようって迷ってるの、ずるいよ! わたしのことを、言い訳に使わないでよ……! 本当は、ずっと前から心は決まっていたんでしょう! ……カナデの気持ちはわかってるよ……彼女だもん! だから……わたしの大好きなカナデの音色を、もっと遠くまで届けてきてよ!」
立ち尽くしているカナデの背中を、泣きながら叩く。話を聞いたときから、カナデが医学部を目指すわけないって、本当はわかっていた。でも、どこかで期待している自分もいて。そんな自分から、目を背けたくて仕方なかった。
カナデはわたしの近くにいることよりも、きっと羽ばたくことを選ぶ。わたしが好きになった松波奏という人間は、そういう人だ。
「わたし、待ってるから……」
そう言ってしまったら、どこか身体から力が抜けた。両腕をだらんと落とし、カナデの背中を静かに見つめる。
「四年間、カナデが帰ってくるまで……待ってるよ。だから……わたしのために行ってきて。そして、わたしの元に帰って来て。わたしのこと、忘れないで……」
涙まみれの顔を隠すと、振り返ったカナデがわたしを抱き寄せた。両手で力強く抱きしめられ、涙声で「バカ、忘れるわけないじゃん……」と顔を埋める。恐る恐る両手を伸ばし、カナデのブレザーをぎゅっと掴んだ。わたしたちはそのまましばらく何も言わず、ただ小さく身体を震わせていた。