第三十八話 君の音が届く場所(1)
高校生になって、三度目の春がやって来た。今年もわたしはカナデの横で、昇降口に貼り出されたクラス替えの表を見上げている。去年の今頃は、緊張で足がすくんでいたのに……今日は、心のどこかに冷たい静けさがあった。
アメリカの音大と並行して医学部の受験勉強もしているカナデは、きっと理系クラスだろう。わたしは私立文系志望だから、別々になる。それでいいと思っていた。今年は、その“距離”に慣れていく一年になるはずだった。来年の春、カナデはわたしの隣にいない。だから今から少しずつ、心を切り離していくしかない。それが、きっとカナデの未来のためだと、そう信じようとしていたのに――。
A組から順に視線を追っていっても、どこにもわたしとカナデの名前は見当たらない。胸の奥に、少しずつざわめきが広がっていく。やっとのことで最後のG組に、わたしの名前を見つけた。――その少し先に、カナデの名前も載っていた。
「……そんな……どうして……?」
一瞬、心の奥がふわりと温かくなる。でもすぐに、不安と戸惑いがそれを呑み込んでいく。血の気が引いていくのを感じながら、わたしは呆然とカナデを見上げた。カナデは無邪気に「良かった。今年も同じクラスだね」と笑っていた。その笑顔がどうしようもなく優しくて、残酷だった。
「……カナデ、なんでわたしと同じ、文系クラスなの……? 医学部は、もうやめたの……?」
「驚き過ぎじゃない? 医学部もまだ一応、志望してるよ。実は、ミナの選択科目と、全く同じものを希望したんだよね」
あまりにもあっけらかんと言われて、言葉を失った。――わたしの選択科目には、医学部に必要な数学は入っていない。なのにカナデは、迷いなくその道を選んだ。
「受験科目を取らなくても、自分で勉強するから別に大丈夫だよ。癪だけど、うちには優秀な家庭教師もいるし」
「でも……」
もしカナデが、既に音大への留学を本心で選んだのなら、医学部を捨てるのは構わない。でも、まだ迷っているはずなのに。そんな中で――わたしの隣にいることを選ぶなんて。
わたしのせいで、選べなくなっているんじゃないの?
カナデは軽く言ってのけるけれど、わたしには分かる。この選択は、カナデにとって不自由を背負うことだ。わたしの存在が、きっと足枷になっている。
唇を噛んだ。指先が震えるほどに、両手を握りしめる。カナデは、わたしを大切に思ってくれている。だからこそ、こうして“隣”を選んでくれた。だけど――その優しさが、今は苦しかった。俯いた瞬間、喉の奥が熱くなって……呼吸がうまくできない。泣いてしまいそうで、どうにか堪える。
「ちょっと、ミナ……どうしたの。大丈夫?」
気づいたカナデが、わたしの腕を取る。そのまま人気のない校舎裏に連れ込まれて、わたしは無言のまま立ち尽くした。カナデは、困ったような笑顔を浮かべていた。
「……ミナ、ごめんね。もしかして、迷惑だった……?」
どこかひんやりとした春の風が、わたしの頬を撫でていく。校舎の影に差し込む光は弱くて、昨夜の雨が残した湿った匂いが空気に漂っていた。カナデの声が、少しずつ沈んでいく。わたしは小さく首を振った。
「迷惑なんて……そんなこと、あるわけないでしょ……? でも、本当に……こんなことして、良かったの……?」
顔を上げると、カナデの瞳がわたしを真っ直ぐに見つめていた。黒曜石みたいなその目が、日陰の中で静かに揺れている。カナデはそっと両腕を伸ばして、わたしを抱きしめた。
「……高校最後の一年……どうしても、ミナと一緒にいたかったんだ。我儘で、ごめん……」
カナデの顔が、わたしの肩に埋まる。その温もりは、確かに嬉しかった。ずっと触れていたいと思うくらいに……何よりも、愛おしい。
――だけど。
わたしは、その腕を抱きしめ返すことができなかった。心が凍ったままだった。どれだけ強く想っても、その凍りついた気持ちをどうやって溶かせばいいのか、分からなかった。
カナデのブレザーの裾をそっと摘みながら教室に入った瞬間、窓辺に佇む凪と目が合った。その隣には、いつも通り彩芽の姿もある。澪音の名前は名簿に見当たらなかったから、三人のうち彼女だけ別のクラスになったのだろう。凪はわたしを見つけるなり、ぱっと表情を輝かせて飛び込んでくる。
「美奈ちゃん! 今年も同じクラスだなんて、嬉しいよ。ふふっ。これはもう、運命だよね?」
それは、屈託ない笑顔だった。凪は目線を移してわたしの隣にいるカナデを見るなり、まるで獲物を見つけたかのように目を細める。
「邪魔な松風さんも同じ科目を取ってたのは、想定外だったけどね。……残念だよ」
その言葉には、あからさまな棘があった。カナデは顔をしかめながら、「それはこっちの台詞」とうんざりしたように溜息を吐いた。彩芽は呆れたように凪の腕を引いて、「また始まった……」と小声で呟く。
「それにしても、美奈ちゃんは今日も可愛いね。ねえ、こんな松風さんなんてやめてさ……今からでも、私にしてみない?」
わたしに向けた言葉のはずなのに、凪は挑発的にカナデを見ていた。冗談めいた凪の声。その響きは甘いのに、どこか冷たい。ぞくりと背筋が震えるような感覚に、思わず身を引く。
「……って、あれ?」
凪の目が、するりとカナデからわたしへと移った。わたしの顔をじっと見つめたその視線は、ゆっくりと全身をなぞるように滑っていく。そして目元でぴたりと止まった。凪の手が、わたしの耳元の髪にそっと触れる。ふわりと持ち上げたその指先が、頬へと滑り――冷たい指が、わたしの素肌に触れた。
「……ねえ、美奈ちゃん。なんか、今日……元気がないみたいだね。もしかして、辛いことでもあったのかな。……そんな鈍い松風さんなんかじゃ、気付いてもらえないでしょ。……私が慰めてあげるよ」
凪の甘く囁くような声が、やけに心臓に突き刺さる。その声音は、まるでわたしの弱さを分かっているかのようで、足元が崩れていくようだった。心の中に必死に押し込めていた何かが――凪のその一言で、かすかに揺らぎ始める。
言い返せない。いつものように、笑って流すこともできない。ただ、わたしの中で凪の声が、いつまでも反響していた。
視線を逸らそうとしても、凪の瞳が逃がしてくれなかった。美しいその目は、何もかも見透かしているようだった。何かを引き出そうとするように、わたしを見つめている。その目が、わたしの瞳の奥に触れた気がした。まるで――何かを悟ったような。
そのとき、カナデが堪らず凪の手を払おうとした瞬間――ぷつん、と張り詰めていた何かが、わたしの中で切れた。喉の奥が熱くなって、息が詰まる。視界が滲んだかと思えば――次の瞬間、涙が一気に溢れ出していた。
「えっ……ミナ? どうしたの……!」
カナデが声を上げる。驚いたように、制服の袖を掴まれた。その動きに合わせて凪の手がすっと離れ、彼女はただ目を細めてカナデを見ていた。彩芽も突然泣き出したわたしに驚いて、「大丈夫?」と慌てて声をかけてくれる。
俯きながら、彩芽の言葉に小さく頷く。だけど、もう止められなかった。ぽろぽろと涙が頬を伝ってこぼれていく。少しずつ教室の視線がわたしに集まってきているのを感じたけれど、頭の中はぐちゃぐちゃで、もう、どうしたらいいのか分からない。逃げたくて、でも逃げ場所もなくて……苦しくてたまらなかった。
何がそんなに苦しいのか、どうしてこんなにも胸が痛いのか――分かってる。全部、分かってる。カナデがわたしのために選んでくれた優しさが、嬉しいのに、ただただ辛かった。あの優しい笑顔を見るたびに、胸が張り裂けそうになった。その事実を、わたし自身がいちばん認めたくなかった。
「ミナ……!」
焦ったカナデが、わたしの手を掴んで走り出す。教室を飛び出し、廊下を駆けていく。カナデの背中が、わたしを庇うようにして前を走ってくれる。すれ違う生徒たちが、野次馬のように振り返ってくる。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、涙だけが止まらない。嗚咽が、唇の隙間から零れていく。壊れたダムのようにわたしの心が溢れていくのを、もう止められなかった。