第三十七話 アドリブの未来(3)
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あっという間に二月になってしまい、わたしの受験まで残り一年を切っていた。放課後は塾に通いながら、それでも予定が合う日はカナデと練習を続けている。だけど――一緒にいられる時間は、前より確実に減ってしまった。カナデもカナデで、毎日レッスンと勉強で忙しそうだし……。カナデもきっと、同じ気持ちでいてくれているはずなのに。お互いが、お互いを思いやろうとすればするほど――どこかちぐはぐになってしまう。上手くいっていない気がして、それが怖かった。
カナデのそばにいたい。でも、邪魔はしたくない。そんなふうに気を張っているうちに、自分がどこに立っているのかも分からなくなってくる。わたしは……どうしたらいいんだろう。チェーンを付けたカナデとのお揃いの指輪が、胸元で静かに揺れている。愛の証は確かにあるはずなのに……それでも、胸の奥はざわざわと波立っていた。
わたしはカナデの部屋に置かれた小さなテーブルに問題集を広げていたけれど、手は止まったままだった。目線の先では、カナデが真剣な顔をして、わたしには絶対に分からないような英語の本を読んでいた。表紙に並ぶ知らない単語たち。知っている単語だけで解読すると、どうやら音楽理論の専門書らしい。
ふと、自分の問題集に目を落とすと――そこに並ぶのは、見慣れたけれど全然分からない英文法の設問たち。英語の授業でさえ四苦八苦しているわたしと、こんな本をすらすら読んでいるカナデ。そういえば授業で当てられた時だって、カナデは面倒くさそうにしながらも流暢に英語を話していた。授業中はそんなカナデに見惚れていて、内容なんて何も頭に入っていなかった。
――もし、もっと英語ができたら。
――もし、わたしにも叶えたい夢があったら。
――もし、外国に行く覚悟ができていたら。
カナデについていけたんだろうか。でも、現実は違う。わたしには、遠い国で何かをしたいという気持ちもなければ、それを支えるだけの経済的な余裕もない。
ああ、やっぱり――住む世界が、違うんだ。
「……ミナ、どうしたの? 分からない?」
わたしのため息に気付いたのか、カナデが顔を上げた。その笑顔は、いつも通り優しくて、あたたかくて――甘えてしまいたくなる。だけど、思わず笑って誤魔化してしまう。
「……ううん、大丈夫。ちょっと考え事してた……」
そう答えたわたしの言葉に、「あれっ?」とカナデが首を傾げた。すっと腰を上げると立ち膝になって、わたしの横にやってくる。
「カナデ……?」
突然の距離の近さに、心臓が跳ねる。真剣な顔をしたカナデの手が、何も言わずにわたしの胸元へと伸びてくる。
――えっ。ちょ、ちょっと待って……どういうこと?
思考がついていかず、反射的に目をぎゅっと閉じてしまった。その手はゆっくりとネクタイに触れ、開けていたワイシャツの第一ボタンへと滑る。ま、まさか……今? うそでしょ? わたし、そんなつもりじゃ――!
思考が真っ白になって、息が止まりそうになる。ひんやりとした指先がわたしの喉元に触れた瞬間、身体が跳ねた。カナデの手が、そのままワイシャツの中をそっと探る。カナデったら、待ってよ。まだ心の準備が……! 頭の中が一気に沸騰して、ぐるぐると目が回っていく。だけど――カナデはただ静かに、シャツの内側に隠していたチェーンを指先で引き出しただけだった。
「……ああ、これ。ネックレス……って、指輪?」
どきどきしながら目を開けると、カナデがチェーンの先に揺れるペアリングを見つめていた。拍子抜けと、安心と、ちょっとした恥ずかしさが一度に押し寄せてくる。わたしは視線を外しながら、小さく呟いた。
「うん、指輪……。学校じゃ付けられないから。ずっとそばに置いておきたくて……。ネックレスにしたの」
カナデは何も言わずに、指先でその指輪を撫でた。そしてふわりと微笑んで、そっとわたしを抱きしめてくれた。――不意にくる、あたたかさ。妄想が尾を引いて、身体が一瞬で熱を持つ。
「ミナは……本当に、ずるいよ。そんなふうに大事にされたら……もう……」
耳元で囁かれ、カナデの吐息が鼓膜をくすぐる。全身が甘く痺れて、わたしはどうにかなってしまいそうだった。おずおずと腕を伸ばして、細い背中をぎゅっと抱きしめる。カナデが好き。たまらなく、どうしようもなくカナデが好き。
何もしないで、ただカナデと抱きしめ合っていたい。このままずっと、二人で溶け合っていたいと思うけど……それじゃだめ。それは、わたしのためにも、カナデのためにもならないから。何も考えずに、甘えているだけじゃいけない。わたしがきちんと立っていないと、いずれカナデを苦しめてしまう気がした。だから一度だけ、ぎゅっと力を込めてカナデを抱きしめて、それからそっと身体を引き離した。
「……ミナ」
少し寂しそうに笑ったカナデが、わたしの頭に手を置いた。「ミナは偉いね」と呟いて、どこか名残惜しそうに髪の毛の束を掬いあげる。その言葉に、わたしは首を振った。わたしは全然、偉くなんてない。だけど――わたしが、カナデの足を引っ張るわけにはいかないから。ただ、置いていかれるのが怖くて、虚勢を張って必死で踏ん張ってるだけだった。
「……あれ、この問題、ちょっと違うかも」
いつの間にか、カナデはわたしの問題集に目を落としていた。わたしが適当に回答を書き込んだ四択問題を指さして、考え込む仕草をする。
「えっ……」
わたしは小さく頭を抱えて、そのページを覗き込む。わたしって本当……情けない。――本当は、こんなこと考えてる場合じゃないのに。それでも、隣にいるカナデのことが、どうしようもなく愛おしい。また、触れたくなってしまった。




