第三十七話 アドリブの未来(1)
市民吹奏楽団の練習日。パートごとに新しい譜面が配られ、柚希と高洲さんは顔を寄せ合い、何やら話し込んでいた。わたしとカナデの横に立っていたほのかも、黒板に書かれた曲名を眺めながら、珍しく渋い顔をして考え込んでいる。
「うーん……ジャズかあ……私、苦手なんだよなあ……」
「何、ほのかジャズ嫌いなの? まあ、確かにほのかっぽくないかもだけどさ……楽しそうじゃない?」
「奏は似合うかもしれないけど……私は奏みたいな、かっこいい音色は出せないから。それに、アドリブなんて絶対無理。譜面通りにしか吹けないの!」
小競り合いをしているカナデとほのかを見つめつつ、わたしも黒板に目を移す。今年の定期演奏会のテーマはジャズのようで、高洲さんをはじめとした楽団のおじさんたちが中心となって定演実行委員を務めていた。もうすぐ受験生になるわたしとほのかは、この定期演奏会で楽団は一時休団する予定だけど……カナデは、どうするんだろうか。ちらりと視線を向けると、ほのかとの言い合いを終えたカナデは僅かに眉間に皺を寄せ、話し合っている柚希たちを見つめていた。そして、ぐっと唾を飲み込むような仕草をして、二人の近くに寄っていく。その仕草はまるで、何かを決意するようだった。
「……あの、磯辺さん、高洲さん。ちょっといいですか」
「んー? 奏っち、どしたー?」
柚希が顔を傾げると同時に、輝かしい金色の髪が重力に靡く。耳元の大きなピアスが揺れていて、大人な仕草になんだか胸が高鳴ってしまう。わたしも柚希くらいの年になったら、あんなに素敵なお姉さんに……なれないだろうなあと、つい肩を落とす。
「私に、一曲……ソロをやらせて欲しいんです」
柚希の顔を見据えながらカナデが言ったその言葉に、わたしは息を呑む。様子を見ていたほのかも、じっとカナデを見守っていた。言葉を受けた柚希は瞬きをし、「ほう、奏っち。やる気だね?」と白い歯を見せて挑戦的に笑う。
「実は、ジャズの譜面に……挑戦してみたくて」
「なるほど、奏っち。その心意気、超いいねー。オッケー、わかったよ。……じゃあ、そんな奏っちには……ねえ、高洲オジ、これどう思うー?」
長い爪で譜面の束をがさがさと漁りながら、柚希は高洲さんに声をかける。楽譜を覗き込んだ高洲さんは大きく頷き、「この曲は……松波さんにぴったりですね」と微笑んだ。
「よし。奏っちにはこの譜面を託すよ。曲の途中と一番最後に、トランペットのソロがある。このソロは……かなり自由に吹いて大丈夫。アドリブを混ぜてもオッケーだからね。……奏っちのソロ、楽しみにしてるよー」
柚希が差し出した譜面に、カナデは恐る恐る両手を伸ばす。確かに受け取り、カナデは譜面に視線を落とした。三人の様子を見守っていたわたしとほのかも、カナデの後ろに回り込んで手元を覗き込む。
「……テイク・ザ・Aトレイン。邦題、“A列車で行こう”。かつて夢を追う若者たちが乗った、音楽の街へ向かう列車の曲です。これから羽ばたく松波さんに、ぴったりですね」
高洲さんが言った横で、柚希がうんうんと首を縦に振る。カナデは譜面を胸に抱き、二人を見据えて「……ありがとうございます」と力強く頷いた。
A列車で行こう。ニューヨークの地下鉄Aライン──ハーレムからマンハッタンへ、成功を目指す若者たちが乗る列車。それは、ジャズを愛する者たちの“始まり”の象徴。そう言って、カナデは後からそっと教えてくれた。
「……昔、ジャズマンたちはこの電車に乗って、音楽の街へ向かったんだって。夢を叶えるために、ね」
そのときのカナデの声は、少しだけ震えていた。けれどその瞳は真っ直ぐで、迷いなんて一欠片もないように見えた。受け取った譜面を抱きしめるその姿が、まるで本当に、どこか遠くの街へと旅立つ直前の人みたいで。わたしはカナデを応援するって決めたのに……ただカナデのことを見つめるだけで、何も言えなかった。