第三十五話 君へ続く音(2)
アメリカの音大。遠い国の言葉みたいに響いたその単語は、意味はわかるのに、どこか現実味がなかった。俯いたままのカナデの頬から流れる涙の粒が、一滴ずつ、わたしの心を冷たくしていく。
カナデが好き。カナデの鳴らす、トランペットの音が好き。どこまでも自由で、真っ直ぐで、わたしを遠くへ連れていってくれる。きっとカナデの音は、もっともっと遠くまで飛んでいける。あの音を、あの光を、失いたくない。
視線を下ろすと、わたしたちの右手にはめられた指輪が、冷たく光っていた。永遠の象徴のはずの銀色の輪が、なぜか鎖のように感じられて、息が詰まる。わたしの「好き」が、カナデの羽ばたきを邪魔する足枷になっている気がしてならなかった。
『どうか、奏を、見捨てないでやってくれ』
カナデのお兄さんの声が、静かに、けれどはっきりと耳の奥に響いた。見捨てるなんて、できるわけない。そんなこと、一度だって考えたこともないのに。
奥歯を噛みしめながら、わたしは思う。わたしは彼女として、カナデの幸せを、ずっといちばんに考えていたい。カナデの幸せって、何だろう。お兄さんの後を追って、医学部に行って、お医者さんになること? ……違うでしょ。あんなにきらきらと眩しくて、音楽が自分の居場所だって言っていたカナデが……音楽を手放して、生きていけるはずがない。そんなこと……わたしが一番分かっている。
アメリカなら……カナデはきっと、もっと自由に羽ばたける。もっと遠くまで、わたしの大好きな音が届けられる。だから、わたしは言わなきゃいけない。「行ってきて」と。「わたしのことは気にしないで」……と。
でも……喉が、からからに乾いていた。気管が細く縮こまって、声にならない。言わなきゃ。言わないといけないのに……。目の前でこんなに震えて泣いてるカナデに……そんなこと、言えるわけがない。
「カナデ……教えてくれて、ありがとうね……」
瞼を閉じて、もう一度その身体を抱きしめた。冷たくなった髪にそっと頬を寄せると、かすかに残る体温が伝わってくる。指先に感じたそのぬくもりだけが、現実の証みたいだった。
「ミナが好き。私は……ずっとミナの隣にいるって、約束したのに……音楽を諦めることもできなくて……でも……ミナと一緒にいたいんだよ……ごめん……どうしたら良いのか、分からないんだ……」
弱々しい声が耳の奥で震えていて、わたしは小さく相槌を打つ。カナデの声が、胸の奥にひたひたと浸みていく。カナデがこんなにもわたしを思ってくれていることが、うれしかった。わたしのために泣いているカナデを突き放して、夢だけを追っていってなんて、言えるはずない。それに、わたしだって……でも、ここでわたしが嫌だと泣いてしまったら、きっとカナデは困ってしまう。わたしが……カナデの夢を諦めさせるわけには、いかないよ。