第三十三話 彼女の秘密(3)
リビングの扉を開けると、相変わらずソファーで寝っ転がった奏と、座っている美奈ちゃんがいた。彼女は目が合うなり、奏の頭をどかしてぱっと立ち上がる。
「あっ、あの……お兄さん。わ、わたし……ごめんなさい……」
今にも消え入りそうな声で頭を下げる姿に驚いて、彼女の近くに寄っていく。転がった奏も目を見開いて、身体を起き上がらせた。
「美奈ちゃん、どうしたんだ。美奈ちゃんが謝ることなんて、何も……」
「いえ、そんなことないです。わたしが……わたしが……」
彼女は言葉に詰まって、唇を噛む。
「……カナデを好きになっちゃって……カナデのことを巻き込んでしまって……ごめんなさい……」
「ミナ……何言ってんの」
美奈ちゃんの茶色がかった瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。嗚咽を漏らした彼女を支えるように、立ち上がった奏が背中を優しく抱えている。奏、お前……。スマートにそんなことが出来るなんて、やるなとつい目を疑った。いやいや、今はそんなことよりも美奈ちゃんだ。
「美奈ちゃん、大丈夫だから顔を上げてくれないかな? 美奈ちゃんが謝る必要はないよ。むしろ……うちのこんな奏を好きになってくれて、ありがとう」
その言葉に、彼女が顔を上げた。赤い目で真っ直ぐに見つめられてしまい、苦笑する。奏のヤツ、こんな素直な子に思われていて……正直羨ましいぜ。いつも奏にやる癖で手を伸ばし、そのまま頭を撫でてしまった。
「ちょっと、兄貴! ミナに触んないで。セクハラだから」
怒った奏が手を伸ばして止めさせようとしたけれど、それを阻止して、両手で二人まとめて撫でくりまわす。
「あはっ……お兄さん、くすぐったいです」
「マジキモい……! ミナ、本当ごめん……」
撫でられた美奈ちゃんはくすくすと笑い出して、奏は怒った声を上げ続けていたけれど、諦めたのか視線を外して立ち尽くしていた。この二人、本当に……子供で、不器用で、可愛いなあ。そう思いながら、暫く頭を撫で続けた。
「……本当あり得ない。ミナ、ごめんね」
ソファーに戻った奏は美奈ちゃんの頭に手を伸ばし、彼女の乱れた髪の毛を整えていた。隣に座る美奈ちゃんは目を閉じて、奏にされるがままだ。
部屋の中には西陽が差し込んでいた。辺りは少しずつ陰で暗んでいき、二人の輪郭がぼやけていく。奏が伸ばす掌に、彼女は穏やかな顔をして身を委ねている。ああ、なんか二人とも、幸せそうだな。このまま幸せになって欲しいと思うけれど、先ほどの奏の言葉が耳に残っていた。
お前の選択は、きっとこれから美奈ちゃんを傷付ける。正気なのか。美奈ちゃんにとって、それはあまりにも残酷だ。だけど……奏の本当の夢を諦めろと言うことも、同じくらい残酷だった。
「美奈ちゃん」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを向き、不思議そうに目を瞬かせた。そんな彼女を真剣に見つめて、頭を下げる。
「えっ……お、お兄さん?」
動揺したような声が降ってきて、彼女は慌てて立ち上がる。彼女の隣にいる奏が、息を呑む気配を感じた。
「奏のこと、どうか……よろしく頼む」
少し間を空けて、唇を結ぶ。この先、どんな未来が二人を待っているのかは分からない。だけど……それでも、奏が“今”を選んだことだけは、俺は信じていたいと思った。
「コイツ、我儘で、自分勝手で……たぶんこれから、美奈ちゃんのことを、何度も困らせると思う。だから……本当に、ごめん。俺も出来る限り、美奈ちゃんのサポートをしていくから……どうか、奏を、見捨てないでやってくれ」
彼女は言葉を失っていた。目をまん丸にしたまま立ち尽くして「そんな……」と小さく声を上げる。
「見捨てるなんて、そんなこと……ありえません。それに、カナデが自由奔放なのは、出会った時からですし……」
彼女は一度言葉を切ってから、柔らかく笑った。その笑顔は夕日を浴びて、涙が出てしまいそうなほどに眩しかった。
「……そういうカナデが、好きだなって思うんです」
何も知らない笑顔が、胸に突き刺さった。隣の奏も気まずそうに口を噤んでいたけれど、「ミナ」と名前を呼んで、その身体を横から抱きしめた。
「わあ、カナデ⁉ どうしたの……?」
「おい、奏。お前、そんなイチャつくなって言っただろ……」
奏は美奈ちゃんの肩に顔を埋めたまま、「うっさい……もういいでしょ」と小さく呟いた。まるで、もう隠さなくていいと自分に言い聞かせるように。コイツ、すっかり美奈ちゃんに甘えている。もしかして、イチャついてる場面を見られたから、もう開き直っているのだろうか。マジで……お前ってしょうがないヤツだな!
どうやら甘えん坊らしい妹の頭に手を乗せると、すごい勢いで叩かれる。抱きつかれたままの美奈ちゃんが、「もう、カナデったら……」と小さく叱っていた。本当に、俺の妹は手がかかる。美奈ちゃんには頭が上がらない。……でもまあ、悪くないか。そう思いながら、二人の姿を見つめていた。
じゃれ合う二人の笑顔に、ふっと胸が温まる。だけど、美奈ちゃんの無垢な笑顔が、奏の秘密を一層重くしているような気がしてならなかった。奏がどんな選択をしても、俺は味方だ。この二人なら、どんな未来もきっと乗り越えられる――そう信じて、律は静かにリビングを後にした。