第三十三話 彼女の秘密(2)
「……うっそだろ」
つい言葉が零れたと同時に、はっとして口元を隠す。心臓が跳ねた。何が起きたんだ、今。いや、見間違いじゃない。あれは──。途端に空気が止まり、こちらに向かう足音が近づいてきた。やば、バレた……と思った瞬間、リビングのドアが開く。ドアを開けた奏は、何かにぶつかったみたいに一瞬立ち尽くした。頬が一気に赤くなり、口元がわずかに震えている。
「……兄貴、なんでいんの」
表情をどこかこわばらせた奏が、静かに律を見ていた。氷のような冷たい言葉が、律の背中を不気味に撫でる。なんでいんのって、ここ、俺の家だし……なんてことは言えるはずもない。律は慌てて奏の手首を掴み、玄関まで引っ張って行く。
「おい奏、お前……美奈ちゃん相手に何やってんだよ。正気なのか?」
「……何、覗いてたの? 最低。キモ過ぎる。本当ありえない」
「いや、これはお兄ちゃん悪くないだろ。あんなところでイチャついてるお前が悪いだろ……!」
一瞬で茹でだこみたいになった奏が、律の身体目がけて手を振り上げる。その震える腕を、律は掴んだ。奏の舌打ちの音が、静かな玄関に響き渡る。
「待て待て、真面目に聞け。お前、さっき、美奈ちゃんに……もしかして、付き合ってんのか?」
「は? キモイ、うっさい。……なんでそんなこと、兄貴に言う必要があるの? 本当ウザいんだけど」
「いや、だって……お前、美奈ちゃんに好きだって言って……キスしてただろ!」
そこまで言うと、奏の足が勢いよく律の脛に蹴りを入れた。「いってえ!」と飛び退くと、目を潤ませた奏が睨んでいる。そのつり上がった両目からは、今にも涙が零れそうだ。
「……最悪。兄貴には、関係ないでしょ」
奏はそれだけ吐き捨てて、口を噤んで俯いた。奏の身体は、小さく震えているようだった。何かを堪えているのか、怒っているのか。律には見当がつかなかったけれど、律の軽率な行動が奏の琴線に触れたのは確かだった。しかも、奏は自分のこんな姿、家族には絶対見せたくなかっただろうしな……。それに、相手が女の子だなんて。自分もショックを受けていないと言えば嘘になる。お前、本当に大丈夫か。
「……奏、これは本当に真面目に聞くんだが……お前、美奈ちゃんと付き合ってるのか?」
言葉を受けた奏は、俯いたまま小さく舌打ちをした。視線を合わさず、「そうだよ」と呟く。
「……そうか」
「何? 悪い? 私とミナが付き合うのが、そんなにおかしいって言うの? 別に、キモくても何でもいいよ。そういうの、慣れてるから。ほっといてよ、邪魔しないで」
奏は顔を上げて、突然何かに吹っ切れたように早口でまくし立て始めた。その刺々しい言葉の中には、奏の気持ちが潜んでいるみたいだった。不安? 焦り? それが何なのかは、律には分からない。律はそんな奏につい呆れて、震える両肩にそっと手を置く。奏は驚いたように目を見開き、言葉を失った。
「待て待て、落ち着け。お兄ちゃんがいつそんなこと言った。ただ、お前が本気なのか知りたかっただけだよ。でもまあ……本気なんだな。分かったよ。大丈夫だ。お兄ちゃんはずっとお前の味方だから、そんなこと言うな」
奏を覗き込みながらも自分に言い聞かせるように、一言一言、言葉を紡ぐ。大丈夫。お前の大切な人は、どっかの男じゃなくて、美奈ちゃんなんだな。同性が好きだという奏に戸惑いがないとは言い切れないし、正直、どう受け止めればいいのか分からない。だけど……それでも、奏が誰かを本気で好きになれたなら、そんなことは些細なことだ。
例え奏の好きな人が女の子でも、これから先、どんな困難がお前の元にやってきても。俺だけは、奏の味方でいてやるから。お前が選んだ人生を、否定なんてしない。もし誰かが、お前の生き方を嘲笑ったとしても──それでも俺は、お前の味方であり続ける。それに、ずっと一人ぼっちだった奏に、好きな人が出来るなんて。性別なんて、結婚出来ないから何だって言うんだ。例え後ろ指をさされても、俺は。
──もうお前は自由だ。何にも縛られない。何も気にすることはない。好きなように生きろ。協調性とか気にすんな、そんなものはクソだ。お前の人生を、誰にも邪魔させるな。お前の人生を否定する奴がいても……お兄ちゃんは最後まで、肯定し続ける。
「……ウザ。父さんと母さんには言わないで。……いつか自分で、ちゃんと言うから」
奏は律の両手を振り払い、突き刺すような視線で律を見た。だけど、その瞳の奥は揺れている。父さんも母さんも、きっと分かってくれると思うけど……絶対に大丈夫だと、胸を張って言える自信が律にはなかった。律は頷いて、奏の頭に手を置いた。
「分かってるよ。だけどお前、本当に気を付けろよ。家であんなにイチャつかれたら、堪ったもんじゃないぜ。あとお前、分かってると思うけど……美奈ちゃんのこと、困らすなよ」
「はいはい、うっさい。覗き見してた変態に言われたくないから」
奏の頭をわしゃわしゃと撫で繰り回すと、奏の片手が腕を叩いた。舌打ちしながら「マジキモい」と吐き捨てて、くるりと背中を向ける。その後姿を見て、はっとした。
「おい、奏。お前、そういえば……アメリカの音大に誘われてるって話……本当なのか」
手を伸ばして呟くと、奏の背中がぴくりと揺れた。まるでその言葉が胸に刺さったように、奏は動きを止めた。
「……どうして、それ……」
顔を半分だけこちらに向け、震える声が漏れる。焦ったように奏は距離を一気に詰め、律の口元を両手で覆った。
「絶対……ミナには言わないで。まだ迷ってる。……すぐには決められない」
奏は小さく息を呑みながら続ける。声が途中でかすれて、目が潤んでいた。
「……ミナには、タイミングをみて自分で言うから。だから……言ったら、承知しない」
必死な形相でそう言って、奏は震える手を離す。「お前……」と呟くと、奏は寂しそうに口角を上げて笑って見せた。
「……分かってる、ずるいって。でも……まだ言えない。言ったら、ミナが……困るだろうし、きっと泣くし、傷付ける。どうしたら良いのか分からない。……それでも今だけは、もう少し……このままでいさせてよ」
そう言い残して、奏はすたすたとリビングに戻って行った。律を拒絶するように、リビングの扉は大きく音を立てて閉められる。
……マジかよ、奏。
律は溜息を一つ吐いて、玄関前に立ち尽くした。本気で好きな美奈ちゃんに内緒にしてるって。お前……だって、海外の音大への留学って。そんなの、美奈ちゃんに言ってみろよ。美奈ちゃんも、お前のことをすごく大切にしてくれているんだろう。そんな子に、四年間日本から離れるかもしれませんなんて、言えんのか。
……ふざけんな、そんな大事なこと、黙ってていいわけないだろ。いや、でも。そうやって迷ってること自体……奏にとってどれだけ大きな決断かってことだよな。俺だって、動揺してる。だけどそれ以上に、奏があんな顔をするのが……耐えられなかった。
夢か、大切な人か。お前……マジで、どうするつもりなんだ? もし俺が、そんな選択を迫られたら。自信を持って選べるだろうか。……奏は、どこまで本気なんだろう。