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第三十二話 未来への一歩(4)

「……というわけで、カナデ。あの大学は、わたしには向いてなさそうっていうことが分かったよ」


 楽団の練習に向かうバスの中で、わたしはカナデにオープンキャンパスの報告をしていた。カナデはわたしの話に興味深そうに頷いて、最後に「ふうん」と声を上げた。


「確かにミナは人混み苦手だもんね。それに、うーん……こういうことを言うとアレかもしれないけど……あんまり大きい大学だと、なんか……心配っていうか。別に小さいところなら安心って訳じゃないけど……」


 カナデは身体を抱えるようにして座りながら、珍しく言葉を濁していた。的を得ない言葉に「どういうこと……?」と呟いてしまう。


「いや。考え過ぎかもしれないけど……ミナが誰かに取られるんじゃないかって不安でさ。だって、ミナ……モテるじゃん。浜野さんとか誉田くんとか……心配だよ」


 カナデが俯きながら言った言葉に、唖然としてしまった。誉田くんはともかく、凪は本当はわたしじゃなくて、カナデのことを気に入っていたんじゃない? しかも、そんなことを言ったら……わたしだってカナデのことが心配なんだけど! と思いながらも、なんだか嬉しくて、つい吹き出してしまった。


「やだ、カナデってば何言ってるの? そんなの、あり得ないなら。わたしはカナデ一筋だよ」


「何それ。信じてるからね?」


 お互い訝し気な表情をしながら見つめ合い、息を吐いて小さく笑い合う。カナデは笑いながら、わたしの手の甲を撫で始めた。くすぐったくて、余計に笑顔がこぼれてしまう。


「でもまあ、向いてなさそうっていうことが分かっただけで、収穫なんじゃない? 私は……」


 カナデは視線を手元に落として、口を噤んだ。優しく撫でてくれていた手が、一瞬止まる。カナデが、何かに迷っている。切なげな横顔に、胸がきゅっと縮こまった。


「……カナデ、やっぱり音楽が」


 その言葉が口を突いて出たとき、カナデはゆっくりこちらを向いて、不格好な笑顔を浮かべた。どこか寂しげなその笑顔に、わたしの胸が静かに締め付けられた。靡いた黒い短髪に、つい手を伸ばしそうになってしまったけれど、ここはバスなのでぐっと堪える。


「……ミナには全部お見通しか。でも、こないだ磯辺さんから音大の話を聞いたんだけど……やっぱり私には合わなそうって、思ったんだよね」


「うん……ていうか、えっ? ユズちゃん先輩って、音大生だったの?」


「知らなかった? たまたま雑談してたら教えてくれて。その時にさ、毎日音楽が出来る環境は魅力的だなって思ったけど……どうしても、縛られるって感じが、だめそうで。それに、私はあんまりクラシック得意じゃないし……オケとか馴染める気がしないなって、思っちゃったんだよね」


 カナデはバスの背もたれに背中を預け、宙を仰ぎ見る。そっと閉じられた瞼が、まるでカナデの諦めを表すかのように、車窓から差し込む影に染まっていく。そんな……。わたしは言葉を無くして、カナデを見つめることしか出来なかった。


「でもさ」


 カナデの声が、沈黙を破る。いつの間にかバスは日陰を通り過ぎて、太陽の元に戻っていた。車窓からは、穏やかな秋の日差しが差し込んでいる。はっとすると、カナデはわたしに視線を戻して、陽の光を浴びながら、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。


「……私たちがいる楽団ってすごいよね。磯辺さんみたいな音大生もいるし、高洲さんみたいなおじさんもいる。それに、楽器を始めたばかりのミナだって。いろんな人が、ただ、みんな音楽が好きってだけで集まってる。本当、すごいことだと思うよ。私はこういう場所で、自分の好きって気持ちを大切にしながら、自由に吹くのが向いてるんだと思う。この楽団があって……良かったって思ってるんだ」


 その言葉が、胸の奥に沁み込んだ。カナデは再び瞼を下ろして、何かを噛み締めるかのように、わたしの手を撫で続けている。市民吹奏楽団、マリンウィンド。カナデと飛び込んだこの楽団が、今ではカナデにとっての大切な居場所になっている。居場所。わたしはカナデの手に、空いていた自分の手を添える。そしてそのまま、ぎゅっと握りしめた。


 その日、楽団の練習から帰った後、スマートフォンのブラウザにキーワードを入力した。“地域”“音楽”“市民活動”……そして、“大学”。いつもなら通り過ぎていた言葉に、自然と目がとまる。表示された学校名のいくつかには、“地域共生”や“コミュニティデザイン”といった、見慣れない言葉が並んでいた。何それと思いながら、一つ一つ、ゆっくりと説明文を読み込んでいく。


 わたしは、学力も、トランペットの技術も、カナデには到底かなわない。支えになりたいと思っても……何ができるかなんて、まだ全然分からない。だけど……。


 カナデが好きだと言っていた場所……マリンウィンドのような、音楽を好きだという人が誰でも自由に集まれる場所を、大切にしていくことはできないのかな。わたしにも、それを“守る側”になれる道が、もしかしたらあるのかもしれない。


「……なるほど」


 小さく呟いたその言葉は、静かにわたしの中に沈んでいった。スマートフォンの画面を見ながら、わたしはカレンダーに手を伸ばし、少し先の日付に『オープンキャンパス』と書き込む。未来のことなんて、まだ何も見えていなかった。でも……わたしはカナデの大切なものを、守れるような人になりたい。


 ペン先が震えながらも確かに未来に向けて走ったその瞬間、胸の奥で、小さな「やってみたい」がそっと芽吹いた気がした。


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