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第三十二話 未来への一歩(3)

***


「うおー! ビルだ! でっけえー!」


 若葉の声が、秋の都会の空に響く。最寄り駅から電車に乗って一時間ぐらいで、大学のキャンパスに到着した。東京の真ん中に堂々と聳え立つビルを見上げて、つい口をあんぐり開けてしまいそうになる。これが、大学……? 辺りでは色とりどりの制服を着た高校生がぞろぞろと歩いていて、つい圧倒されてしまう。こんなに多くの高校生が、この大学に興味を持っているだなんて……なんだか信じられなかった。


「おい若葉。あんまりはしゃぐな、恥ずかしいから。それにしても、流石有名大なだけあって、人が多いね」


 冬子が手にしているパンフレットに視線を落としながら、落ち着いた声で言った。


「若葉と日菜子は、どこに行きたいんだっけ。私は商学部か経済学部の模擬授業に行ってみたいんだけど。春日さんもどっか、行きたいとこある?」


 ちらりと視線を投げられて、わたしは首を振ることしかできなかった。まだ冬子のことは、よく知らない。だけど……口にした学部名があまりにも具体的で、思わず驚いてしまった。商学部? 経済学部? どうしてそんなにはっきりしているんだろうと思ったら、冬子が真顔のまま呟いた。


「……春日さん、別に学部に深い意味はないよ。就職に有利そうだなと思ってるだけ」


 わたしの心を見透かしたように、冬子が言う。わたしってそんなに思っていることが分かりやすいのかなと思いながら、相槌を打った。冬子は就職のことまで見据えて進路を選んでいるなんて、すごいな……。それに比べて、わたしって……と情けなくなる。


「さっすが柊氏は真面目だよねー。私は学食さえ行けたらいいんだけど。あ、でも展望デッキは興味あるなー。図書館も行けるみたいだし、行ってみたいかもー」


「若葉……お前、興味ある学部はないの?」


「えー? 学部? じゃー文芸部らしく、文学部でも行ってみっか」


 軽やかな会話が続く中で、ふと日菜子が隣に寄ってくる。柔らかい瞳で微笑まれて、それだけで不思議と心が緩んだ。


「美奈ちゃんは、進路……どうするの? 奏ちゃんは、きっと……上の大学を目指すんだろうね」


 少し寂しそうな顔をした日菜子に、目を伏せて頷く。そんなわたしを見て、日菜子はそっと腕を取った。腕が柔らかな身体に包まれて、ブレザー越しにじんわりと体温が伝わってくる。


「……美奈ちゃん、きっと大丈夫だよ」


 そう日菜子が囁いた声はどこまでも優しくて、穏やかだったけれど――確かな強さを帯びていた。


「私もね、高校に入りたての頃は……蒼ちゃんと同じ学校に行けなくて、すごく寂しかった。だけど……きっとうまくいく。奏ちゃんを信じてあげて」


 日菜子はわたしの腕を掴んだまま、静かに俯いた。その瞬間、日菜子の瞳が少しだけ陰る。だけどそのまま瞼を閉じて、短く息を吐いて――すぐにまた、真っすぐ顔を上げた。


「私も、蒼ちゃんと同じ大学には行けない。レベルが全然違うんだもん。でもね……ずっと一緒にいたいから、私は私で、頑張ろうって思ってるの。それに、学校が違っても、会うことはできるでしょう? だからね、大丈夫。信じよう?」


 その言葉は、どこか日菜子自身に言い聞かせているようにも思えた。寂しさを、正面から受け止めようとしている。きっと日菜子だって、不安で、仕方がないはずなのに――。


「日菜子ちゃん、ありがとう……」


 そう呟きながら、わたしもそっと、日菜子の腕に自分の手を重ねた。日菜子の優しい体温が、心の奥まで沁みてくる。


「日菜子ちゃんは進路……考えてるの?」


 尋ねると、日菜子は少し照れたように笑って首を傾けた。ふわりと髪が揺れて、甘い香りがほんの少し、風に乗って届く。


「蒼ちゃんがね、体育の先生になりたいんだって。だから、それを支えてあげたくて……栄養学科とか、興味あるんだ。志望動機、不純かな」


 ――全然、不純なんかじゃないと思った。


 日菜子の言葉が、すとんと胸の奥に落ちてきた。誰かのために学ぶ。誰かを支えるために、自分の未来を選ぶ。日菜子の夢は、蒼の隣に立ち続けること――それは、ただ優しいだけじゃない。きっと、覚悟のいる夢だ。


 カナデのことを考えた。わたしもカナデを支えたい。でも……どうやって? わたしには何もない。学力もない。楽器もまだまだ。カナデを支えたいと思っても、わたしにできることって何だろう。どうすれば、カナデを支えることができるんだろう。


 カナデがお医者さんになると言うのなら、そばで支えられる仕事……看護師とか? だけど、わたしは注射で怯えるような人間だし、なんだかちょっと単純すぎて、違う気がする。他に、もっと、ないのかな……。そもそもわたしにできることなんて、あるのかな。ただカナデが好きってだけで、わたしは何かを選べるの?


「おーい、日菜子氏と美奈氏~。行くぞー。まずは展望デッキに上ってみようぜー」


 若葉の軽やかな声に、はっと我に返る。大学のビルの入り口はなんだか未来への扉みたいで、ちょっとだけ怖かった。


 ビルの中は、制服姿の高校生で溢れていた。学生の集団とすれ違うたび、響く笑い声に耳の奥がぼんやりと霞む。賑やかで、楽しげで――わたしも、あんなふうに笑えたらいいのに。そう思いながら、少しだけ距離のあいた三人の背中を追いかける。人の多さに飲まれて、胸がじわりと苦しくなる。都会の大学の空気は、なんだか密度が違う気がした。


 ガラス張りのエレベーターに「地元のデパートみたいだわー」と若葉は笑い、いつかカナデと上ったタワーとは比べ物にならなさそうなビルの最上階から、東京の街並みを見下ろした。窓の向こうは、あまりにも遠く感じられる景色だった。足元の床は確かに存在しているのに、わたしの足だけが地から浮いているような感覚。目の前を行き交う高校生たちは、まるで別の世界の住人みたいに見えた。


 俯くと、隣にはきらきらとした表情でスマートフォンを構える女の子。その手を繋いでいたのは、学ランを着た男の子だった。……オープンキャンパスって、カップルで来る人もいるんだな。きっとこの場所は、誰かと未来を描ける人たちのためにあるんだ。


 わたしには、縁のない世界――目を逸らしたその先にも、カナデの姿はなかった。隣にいてくれるはずのカナデが、今ここにいないことが、胸に静かに刺さった。この空間のすべてが、自分の現実じゃないように思えてくる。ああ、本当に異世界みたい。……こんな世界で、わたしはやっていけるのかな。


「美奈氏どしたー? 人に酔ったか?」


 ガラスにぺたっと貼りついていた若葉に笑われて、はっとする。「大丈夫だよ」とかろうじて返事をしながら、わたしはまた視線を落とした。


 その後、冬子が行きたいと言っていた模擬授業を受け、日菜子が気になっていた栄養学部のブースに立ち寄り、若葉お目当ての学食でランチを食べた。若葉は食べ終わるなり「ちょっと探検してくるわー!」と冬子の腕を引いて立ち上がり、わたしと日菜子はテーブルにふたりきりで残された。


「あは……ちょっと、疲れちゃったね」


 水のグラスを手にした日菜子が、ふうっと息をつきながら天井を見上げる。その表情にはいつもの優しさに混じって、少しだけ疲れが滲んでいた。


「ほんとにね……」


 わたしもグラスに口をつけながら、日菜子の言葉に頷く。慣れない空間、慣れない人の波。ここにいるだけで、何かを試されているような気持ちになってしまう。


「美奈ちゃんも疲れた? なんか大学って、凄いんだねえ……。いるだけで体力が吸い取られるような気がするよ」


「うん……。でも日菜子ちゃん、この大学志望してるんじゃないの? 栄養学部あるし」


「えへへ、一応……。でも、少し都会的過ぎるかな? 私はちょっと馴染めないかも」


 その言葉を聞いて、ふっと心が軽くなった。わたしだけじゃなかったんだ。日菜子のような子でも、そう感じることがあるんだ。


「この大学、設備もきれいで便利そうだし、ビルもかっこいいんだけど……なんだか落ち着かないなあって思っちゃって」


 わたしもその言葉に頷きながら、お茶を啜る。まわりは輝いて見えるのに、自分だけが浮いているような気持ち。そんな感覚を共有できる誰かがいるだけで、少しだけほっとした。日菜子の言う通り、わたしもこのビルと人の多さには気遅れしてしまっていたし、何より……このキャンパスで勉強をしている自分のイメージが持てなかった。まだ行きたい学部も何も分からないけど、込み合った世界はわたしにはあまり向いていなさそうだった。


「若葉ちゃんと冬子ちゃんは、結構この大学気に入ってそうだけどね。私は……もう少し他のところも見てから考えたいな」


 日菜子は頷いて、グラスに入れていた水を飲み干した。その姿がとても真っ直ぐで、無理に決めつけない優しさがあって――わたしの中にも、少しだけ余裕が戻ってきた気がした。


「……そっか。まだ、時間はあるもんね」


「うん。だから、焦らなくていいんだよ」


 日菜子のその一言に、わたしの心のどこかに張りつめていた何かが、はらりとほどけた。まだ時間はある。少しずつでいい。焦らず、でも逃げずに、わたしにできることを――それを、これから考えていけたらいいのかもしれない。


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