第三十二話 未来への一歩(1)
昼休み、地学準備室で弁当の唐揚げを摘まんでいたら、一足先にパンを食べ終えていたカナデが席を立った。パイプ椅子を両手に持ち、一脚ずつわたしの横に並べていく。
「……何してるの?」
不審に思って声をかけると、カナデは「んー?」とだけ声を上げる。そのまま三脚並んだ椅子に足をかけると、バランスを取りながらわたしの方へ身を預けてきた。
「ちょっと、カナデ」
「やっぱ、ミナの膝枕は落ち着くね。パイプ椅子だから、少し寝心地悪いけどさ……」
カナデは天井を仰ぎ、気持ちよさそうに瞼を閉じた。そんなことをされてしまうと、弁当を食べるどころじゃないんだけど……。本当にもう、と呆れながらも、その頭に自然と手が伸びる。こういうところが、やっぱり好きなんだなと思ってしまう。
スカート越しに体温を感じながら、部屋の沈黙に身を委ねる。窓からは爽やかな昼の日差しが差し込んでいて、青い空にはいわし雲が浮かんでいた。カナデの静かな寝息が耳を擽り、つい笑顔になってしまう。昼休み、終わらないでほしいな。なんて祈りながらその寝顔を眺めていると、扉を叩く音がした。
「うわあ! はっ……はい!」
静寂を切り裂いた音に驚き、慌ててカナデの頭をどかそうとする。するとカナデの身体がぐらっとバランスを崩して、そのまま椅子ごと床に倒れ込んだ。椅子が地面に落ちる音が、盛大に部屋の中に響き渡る。
「わあ、カナデ⁉ ごめん! 大丈夫……?」
「春日さん……松波さん……何してるんですか……」
控えめに開けられた扉からは、新町先生が真顔で覗いていた。カナデはうめき声を上げて、椅子に埋もれた身体を起こす。
「先生こそ何の用ですか……せっかくいい感じに昼寝をしていたのに……」
「……その格好で聞くのもあれですが、お二人に、用がありまして」
カナデは頭を掻いて、転がった椅子を直していく。新町先生は眼鏡の向こう側の瞳を呆れたように少しだけ細めて、息を吐いた。
「……進路希望調査票の提出日が、今日までですが。お二人とも、まだ提出がなかったようなので。未定でも構いませんから、今日中にお願いします」
その言葉を聞いて、きゅっと心臓が縮こまる。カナデは「そうでしたっけ……」と視線を外して、溜息を吐いた。
「……放課後までには提出します」
「松波さん、よろしくお願いします。春日さんはどうですか?」
新町先生に見つめられ、背筋がひんやりと冷たくなった。目が合わせられないまま、「わたしも、放課後には……」と呟く。
「分かりました。二人とも、お待ちしていますよ。用件はそれだけですから、午後の授業もきちんと出るように」
そう言い残し、新町先生は部屋の扉を閉める。カナデと二人きりの沈黙が戻って来るけれど、わたしの心臓はどきどきと落ち着かないままだった。
「……進路ねえ。ミナはどうするの?」
パイプ椅子に座りなおしたカナデに見つめられてしまい、両手をスカートの上で握りしめる。進路……そんなのわかんない。わたしは何がしたくて、何になりたいのか。そもそも、自分が大人になるイメージが湧かないし……。ただなんとなく、周りに置いていかれる気がして不安になる。将来やりたいことなんて、いつから探していなきゃいけなかったんだろう。わたしはただ、日々を過ごしてきただけだった。それに、今までも何かを目指した記憶なんて、ほとんどない。
「……まだ決めてないの。カナデは?」
怯えながら、カナデに質問を返す。本当は、カナデにずっと聞きたかった。でも怖くて、聞けないままで。学年一位の学力を誇り、音楽にも秀でているカナデと、平均点しか取れない平凡なわたし。わたしがどんなに頑張ったとしても、卒業後の進路はきっとバラバラになってしまうだろう。その現実を受け入れる勇気が、まだわたしには足りなかった。
「んー……私もあんまり真面目に考えてないけど……とりあえず、地元の国立の医学部かな」
何気なく吐かれた言葉に、呼吸が止まる。そんなの、わたしには絶対無理。何年も何年も浪人したら、もしかしたら、万が一、何かの間違いで受かることはあるのかもしれないけど……経済的に、浪人なんてできるわけない。医学部。自分とは住む世界の違うその言葉が、心臓に突き刺さっていた。
「ミナ、何そんなに驚いてるの。別に、医者になりたい訳じゃないけど……うち、兄貴もそこだし、両親も医者だし。まあ無難かなと思ってさ。実家からも通えるしね」
動揺し続けているわたしに苦笑して、カナデが席を立って頭に手を乗せた。優しく撫でてくれるカナデに、両手でぎゅっと抱き着いてしまう。
「ミナ……」
優しい声が、わたしをそっと包み込む。卒業して、離れ離れになっちゃうなんて嫌だよ。だって、わたしのしたいことは……カナデと一緒にいることだから。
「……私も、ミナと同じ大学に行こうかな」
「それはダメ!」
さらりとカナデが言った言葉に、目をむいて反論する。カナデは一瞬驚いたような顔をしたけれど、困ったように笑ってわたしの頭を撫で続けた。
「カナデがわたしのレベルに合わせて、同じ大学を目指すのはだめ。ちゃんと、自分の行きたい学校に行って。でも、医学部……わたし、カナデは音大を目指すのかと思ってた。……トランペットは、やらないの?」
細い腰にしがみついたまま、言葉を繋げる。わたしの言葉を受けたカナデは「……音大ねえ」と呟いて、窓の外に視線を向けていた。
「……トランペットは、まあ、趣味っていうか、好きでやってるだけだから。音大も考えなかった訳じゃないけど、なんか微妙にイメージできなくて。でも、音楽は好き。できるなら、これからもずっと続けたいとは思ってるよ」
「わたし、カナデのトランペットが好き。どの音楽よりも……この世で一番素敵で、かっこいいって思ってる。だから、わたしの好きなカナデの演奏……絶対、辞めないで」
「ははっ、ミナってほんと……大げさだな。でも、ありがと。ミナにそう言われると、吹き続けなきゃって思うよね。私も、ミナの吹く音が好きだよ。これからも一緒に、吹いて欲しい」
そう言ってカナデはわたしの額に唇を落とし、照れたように微笑んだ。丁度よく昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、名残惜しさを感じながらも腕を離す。チャイムの音が遠くに消えていく頃、風に乗って秋の匂いが部屋に入り込んだ。
部屋の外からは、乾いた風が木々を揺らす音がしていた。色づき始めた葉が風に舞い、空を小さく渡っていく。カナデと一緒に過ごせる時間は、あと一年と半分もない。永遠に続くように思えた日々が、ゆっくりと終わりに向かっている――そんな気がして、胸が少しだけ痛んだ。