第三十一話 君となら(3)
「ははっ……もう、びしょ濡れだよ、まったく……」
砂浜に素足を放り投げて、座り込んだカナデが笑う。その足先には砂の粒子がこびりついていて、太陽の光を反射させていた。わたしも横に座り込んで、カナデの横顔を静かに見つめる。
沈黙が、わたしたちの間におりる。風の音と、波が浜辺に打ち付ける音。その二つに耳を傾けながらも、心臓がどくどくと大きく脈を打っていた。顔を覗き込みながら、片手をカナデの短髪に伸ばす。
「ん? どうしたの、ミナ」
優しく囁かれて、カナデがわたしの手を包む。導かれ、手はカナデの頬に触れていた。かすかに熱を帯びた肌の体温が、じんわりと伝わってくる。カナデが掌に頬を寄せると、なんだかすごく恥ずかしくなってきて、身体が熱くなった。真夏の温度も相まって、今にも熱中症になってしまいそう。
「ミナ……すっごい、真っ赤だよ」
ぱっと手が離されて、カナデがおどけたように声を上げる。すっかり照れてしまったわたしは、鞄からペットボトルを取り出して一気飲みをした。だけど、温くなってしまった水では、身体の火照りを抑えることはできなかった。
「ねえ、ミナ。その水、私にもちょうだい」
「……えっ⁉」
さらりと吐かれた言葉に、心臓が跳ねる。カナデは何てこと無さそうな顔をしていたけれど、わたしの反応を見て口角を上げた。……またからかって遊んでいる。しぶしぶペットボトルを差し出すと、カナデは口元を緩めたまま水を一口、口に含んだ。
「ありがと。美味しい」
「ええ……? ただの水だけど……」
返却されたペットボトルを受け取って、身体を体育座りにした脚に埋める。カナデが口をつけたペットボトル。それを受け取ると、どうしていいか分からず、わたしは手の中で転がすようにしばらく見つめてしまった。なんてことない水なのに、心臓が破裂しそうだった。
本当、カナデってずるいよなあ。自由で飄々としているところは、出会ってから何も変わらない。いつもわたしを惑わせて、どきどきさせて、太陽みたいに眩しくて。そんなカナデに、わたしはずっと夢中なまま。潮風に靡く髪の毛を手櫛で整えながら、わたしは眼前の海を眺めていた。
「……あのさ、ミナ。付き合った時に私が言った言葉、覚えてる?」
カナデの声が波に溶けて、隣を見る。カナデの目は波打ち際に吸い寄せられていて、どこか遠くを見ているみたいだった。
「えっと……修学旅行の日の朝に言ってくれた言葉でしょ。ええと……わたしと一緒に、恋愛をしてみたいって、言ってくれた」
「はは……なんかそう思い出されると、恥ずかしいね。そんなこと言ったと思う。あとさ、恋愛のこと、よく分からないって……ミナに言っちゃったと思うんだけど」
口を噤み、カナデは顔をこちらに向ける。視線がぶつかって、胸がどきりと高鳴った。カナデは真剣な表情をして、わたしのことをただ見つめている。えっ。何? あたふたとしつつ、言葉を探しながら口を開こうとすると、ふいにカナデの顔が近付いてきた。カナデの息が、わたしの頬にふっと触れる。微かに潮と風と、カナデの匂いが混ざった。この瞬間だけ、世界の全てがわたしたちのために止まっているようだった。それは、一瞬の出来事だった。
瞼を下ろしたカナデの口元が、わたしの唇にそっと触れた。カナデがいつもトランペットのマウスピースに触れるときよりもずっと、柔らかくて、優しかった。風が、静かに吹いた。潮の香り。波の音。すべてが夢みたいだった。カナデが顔を離すと、その黒い瞳が揺れていた。真っ赤な頬。口元をきゅっと結んだまま、カナデは言葉を失っていた。そして、笑うように息を吐く。
「ミナ……大丈夫?」
「……えっ」
やっと出た声は、波の音にかき消された。頬が一気に熱を持ち、身体中が沸騰した。でも、何よりも熱かったのは、触れたばかりの唇の余韻だった。ちょっと待って。今のって。まさか……ええ……⁉ 頬に手を当て、カナデから視線を外す。どんな顔をしてカナデのことを見ればいいのか、分からなかった。
「ねえ、照れすぎじゃない……? そんなにされると、私まで照れるんだけど……。でも、うん……やっぱ照れるね。恥ずかしくて死にそうだよ。本当……恋ってやばい……」
微かに震えるカナデの声はどんどん小さくなって、最後の方は何も聞き取れなくなってしまう。わたしたちはお互い目線を逸らしたまま、身体を抱えて座り込んでいた。
恋愛が分からないと言っていたカナデが、こんなことをしてくるなんて。わたしのために無理してるんじゃないのかなと思いながらも、カナデが真面目で誠実な人なのは、わたしが誰よりも知っている。遊びやからかい半分で、カナデがこんなことをしてくるわけがない。
「ほんとに……?」
横目でちらりとカナデを見ると、視線を逸らしながら耳まで真っ赤になっていた。その仕草が、どうしようもなく愛しかった。嬉しくて、恥ずかしくて。今にも死んでしまいそう。
「カナデ……好き……! 世界で一番大好きだよ……!」
わたしは思わず、両手でその身体を抱きしめた。わたしの熱を伝えたくて。想いを、まっすぐにぶつけたくて。バランスを崩したカナデの片手が、砂浜に食い込んだ。「ちょっと、ミナったら!」と言いながら、もう片方の手をわたしに添える。好きで、好きで、たまらなくて。わたしはつい、その赤く染まった頬に口付けた。
「ミナ……! 分かったから! もう……本当に……死んじゃうって……」
カナデの溜息が砂浜に落ち、波に交じって消えていく。わたしたちは抱きしめ合ったまま、波の音に包まれながら、静かに夏の砂浜に溶けていった。