第三十一話 君となら(2)
しばらく誰もいない電車に二人きりで揺られ、カナデが言っていた駅で降り立つ。辺りは緑がさんさんと眩しくて、真夏の輝く太陽がわたしたちを照らしていた。時計の針が止まってしまったかのような静けさを帯びたホームに、蝉の声だけが響いている。
「暑いね……」
額から滴る汗を拭っているカナデに頷いて、周辺を見回す。一本だけの細い線路が、草に埋もれそうになりながら伸びていた。錆びた駅名標は、陽に焼けて文字もほとんど読み取れない。まるで、昔ここに誰かがいたことを、かすかに伝える遺物みたいだった。小さな木造の駅舎に目を向けると、どこか違和感があった。
「あれ、カナデ……この駅、改札がないよ?」
「ほんとだ、無人駅みたいだね。あ、あれにタッチすればいいんだよ、たぶん」
カナデが指さした先には、時代の流れに取り残されたような駅に似つかわしくない、カードリーダーがぽつんと設置されていた。近づいてみると確かに自動改札の代わりのようで、そわそわしながらカードをかざす。ピピッと軽い音がして、無事に運賃を払えたことに少しだけ安心した。
誰もいない駅舎を出て、どこなのかも分からない街に足を踏み入れる。駅前には、時間が止まったまま寂れている電話ボックスと、塗装の剥げたバス停が一つ立っていた。色褪せた時刻表を見てみると、あまりの真っ白さに驚いてしまう。まるで、街自体が人から忘れ去られて、夢の中で眠っているみたいだった。
「……あっちに行けば、海に出そう。行ってみよう」
苔の生えた木の案内板を見て、カナデがわたしの手を優しく引く。夏の強い日差しの中で、わたしの掌はすっかり汗ばんでいた。繋いでいるカナデの手も、しっとりと湿っていて温かい。思わずふふっと笑みがこぼれると、カナデは不思議そうな顔をしてわたしを見た。
少し歩くと、あたり一面、どこか懐かしい緑が広がっていた。水を張った田んぼが、空の色を映してきらめいている。人っこ一人いない田園のあぜ道を、手を繋いで歩いていく。こんなにきれいな場所なのに、カナデと二人きりでいられるなんて。心がじんわり熱くなって、この間の定期演奏会でカナデが演奏してくれたソロのメロディーを、つい口ずさんだ。
「ミナったら……すごいご機嫌じゃん……」
カナデは笑って、お世辞にも上手いとは言えないわたしの歌声に、静かに耳を傾けていた。蝉の合唱に紛れながら、わたしの声が夏の空に溶けていく。そしてその隣には、確かにカナデのぬくもりがあった。
田んぼの緑が途切れ、舗装路が砂混じりの地面に変わる。風が、少し変わった気がする。草の匂いに混じって、かすかに潮の気配がした。カナデの手に導かれるように小さな坂を登ると、視界が一気に開けた。目の前に広がる金色の砂浜、そして果てしなく続く青い海。空と海の境目が曖昧で、まるで世界の端が滲んでいるみたいだった。空と海が溶け合うその光景に、息を呑む。風が頬を撫で、波の音だけが響いていた。
「カナデー! 海だ……すごい! 広いね……」
「いや、いっつも海見てるじゃん。でも確かに……太平洋だからなのか、広い気がする」
カナデの言う通り、いつも見ている東京湾とは全然違う。眼前に広がる真っ青な水平線は僅かに湾曲していて、まるで地球の輪郭のようだった。この海をずっと行ったところに、わたしの知らない国がある。なんだか信じられないな。なんて、なんて広いんだろう。言葉を失っていると、カナデがわたしの手を引いた。
砂浜に二人で近付いていき、透明な波とじゃれ合って遊ぶ。ふいに波が勢いよく打ち付けて、わたしの足がさらわれた。履いていたサンダル越しに、ひんやりとした潮水が足元を包む。
「あはは! やだ、冷たい。濡れちゃったよ」
「ミナ、大丈夫? でも、気持ちよさそうだね」
波の冷たさに驚いたふりをして、カナデの手をぎゅっと握りしめた。カナデは少しだけ驚いたように目を丸くして、それから何も言わずに握り返してくれた。わたしは足元を濡らしたまま、カナデの手を取って波打ち際を歩き続ける。途中、カナデもスニーカーを放り投げて、わたしと一緒に足を濡らしてくれた。誰もいない砂浜に、波の音と、わたしたちの笑い声だけが響いていた。