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第三十話 トランペットの光(4)

『ねえ、ミナ。本当に、この曲のソロを私に吹いて欲しくて選んだの?』


 いつも通りの防波堤での練習中。磯辺さんから貰った譜面を眺めながら、隣に座るミナに声をかける。ミナが選んだ曲はゲールフォース。軽く調べただけでも、三つのアイルランド民謡を元にした編曲で、勢いのあるリズムと美しい中間部のソロが特徴的な難曲だ。初心者のミナが、どうしてこの曲に惹かれたのか……最初は不思議だった。


『……うう、そうなの。カナデに、吹いてほしいなって思って……本当に、それだけなの』


 視線を泳がせて、ミナがぼそりと呟く。あの頃のミナは、まだ私の彼女じゃなかった。けれど、きっと隠しきれない想いがその頬に滲んでいた。


『笑われるかもしれないけど……あのソロを聴いたときに、外国の星空の下で演奏するカナデの姿が思い浮かんだの。それで……これだって、思って。ごめんね、こんな理由で……』


 そう言って体育座りで膝を抱えたミナは、自分の気持ちをどこか恥ずかしそうに押し殺していた。私は、何も言わずにその頭に手を置く。驚いたように目を見開いたあと、くすぐったそうに目を細めるミナを見て、ただ素直に可愛いなと思った。


『なるほどね……』


 手元の譜面を眺めながら、口の中で繰り返す。ゲールフォース。直訳すれば“ゲール族の力”。そのタイトル通り、勢いと情熱に満ちた旋律の中には、アイルランドという土地の痛みや祈り、そして誇りが流れている。


 特に中間部。フリューゲルホルンの甘く切ない旋律には、失われた故郷や、届かぬ祈りのような気配が宿っていた。知れば知るほど、こんなにも繊細で情緒的なメロディーを、自分が本当に吹いていいのかと怖くなる。私は、もともと柔らかい音が出せるタイプじゃないし、音に優しさを宿すのが苦手だと思っていたから。


 でも。


『私は奏に吹いてほしい。みんなに、奏の音を聴いてほしいの』


 ——あのとき、ほのかがそう言ってくれたみたいに。


 誰かが私に託してくれた思いを、もう無下にはしたくない。今の私は、誰かの期待に応えるのが……もう怖くなくなった。だって、隣にミナがいるから。


 ステージの空気が張り詰める。木管のリズムが跳ねるように始まり、金管が激流のように押し寄せていく。ミナが苦戦していたフレーズも、今ではしっかりと自分のものにしている。口先では「もう無理」なんて言いながら、何度も何度も、諦めずに練習してきた。その姿を、私は誰よりも知っている。


 そして、曲は静寂に沈む。


 まるで、夜の帳が降りるみたいに。騒がしかった世界が、すっと消えていくように。私はそっとフリューゲルホルンに手を伸ばした。磯辺さんに借りたそれは、トランペットより少し丸みを帯びた音色を持っている。柔らかくて、温かくて……まるで、ミナの声みたいだと思った。


 眩しい照明の光が降り注ぐ中、私は立ち上がる。息を吸って、ミナのことを考える。ミナが選んでくれたこの曲。あのとき彼女が思い描いた“星空の下で演奏する私”に、少しでも近づけたらいいなと思った。


 星が瞬く。観客のざわめきが遠のいて、音だけが世界を満たす。私は、ソロの旋律に心を重ねる。届かない誰かへの想い。見えないけれど、確かにそこにある絆。過去も痛みも、祈りも全部、この音に乗せて。


 ——どうか、ミナに届きますように。


 静寂が、再び波のように崩れる。ソロを終えた私は着席し、自分のトランペットを手に取った。ピストンには今日も、ミナがくれた石が光を浴びて輝いている。私は指先で、それをそっと撫でた。


 曲は終盤へと突入し、嵐のようなエネルギーがステージを包む。今度は全員が一つになって、音楽という風を巻き起こす。あの日々が、いま音になっている。私たちの歩いてきた時間が、形になってここにある。


 最後の一音を吹き切ったとき、全身の力が抜けた。唇からマウスピースを離し、震える手で楽器を下ろす。ふいに横に顔を向けると、視線があった。


 ミナだった。


 数席離れた場所から、真っ直ぐに私を見つめていた。瞳は潤み、頬には静かな涙の痕が残っていて、照明を受けてきらきらと輝いている。彼女が泣いている理由はわからなかった。でも、きっとそれは、私たちだけが知っている音が、ちゃんと届いた証なんだと思った。



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