第二十九話 世界の色(4)
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日曜日の練習を終えた帰り道。わたしとカナデは、ほのかと一緒にバスの一番後ろの座席に並んで座っていた。静かな車内。耳に届くのは、微かに軋むタイヤの音と、次の停留所を告げるアナウンスだけ。にもかかわらず、自分の胸の鼓動だけが、やけに大きく聞こえていた。
隣に座るカナデの手が、そっとわたしの身体に触れる。その温もりを感じた瞬間、手の甲でこっそり触れ返す。気付かれないように――だけど、震えそうな指先を、どうにか支えてもらいたくて。
大丈夫。ほのかなら、きっと受け入れてくれる。そう信じているのに、それでも喉の奥が張り詰めて動かない。わたしはカナデと目を合わせ、小さく頷いた。
「あ……あのさ、ほのか」
無機質なアナウンスにかぶせるように、カナデがぽつりと声を上げる。ほのかはいつも通りの優しい顔で、「ん?」と首を傾けた。さらさらと落ちる髪が、窓の外の闇にとけてゆく。
「……私さ、ミナと付き合うことにしたんだ」
その瞬間、しん、と音が止まったような気がした。車内を満たしていた小さな振動までもが遠のいて、世界が数秒だけ凍りつく。ほのかは瞬きを忘れたように固まり、「……えっ!」と声を上げた。慌てて口を押さえたその顔に、わたしも息を呑む。
「……ちょっと待って、本当に? えっ……美奈ちゃんと、奏が……?」
目をぱちぱちと瞬かせながら、何度も「ええ?」と繰り返すほのか。その動揺にわたしまで不安になって、じっと息を潜めていた。
「ねえ、ほのか。驚き過ぎじゃない……?」
「いや……ごめん……でも、驚くでしょ……。だって、奏がだよ? これはちょっと、詳しく聞かなきゃだなー……」
動揺し続けているほのかを、カナデが面倒くさそうに眺めている。その視線に、ほんのり呆れが混じっていた。やがてバスは駅前に着き、わたしたちはほのかに連れられて近くのカフェに入った。木目のテーブルに置かれたグラスを両手で包みながら、ほのかがアイスココアを一口飲んでから、静かに口を開く。
「……美奈ちゃん。本当に、奏でいいの?」
「ちょっとほのか。どういうこと」
真面目な顔をしてわたしを覗き込むほのかに、間髪入れずにカナデが突っ込む。そんな様子につい吹き出して、わたしはほのかに頷いた。
「うん。……わたしが、カナデがいいの」
そう答えると、ほのかはふっと表情を緩めた。グラスを撫でるようにしながら視線を落とし、わたしの言葉をゆっくりと胸に沈めていくようだった。
「そっか。……そっかあ。二人が、付き合うなんて……。なんだか私も嬉しいな。おめでとう。でも……奏はともかく……美奈ちゃんは……。奏、本当に美奈ちゃんのこと大切にしないとダメだからね? こんないい子、正直奏には勿体ないよ」
「私だって分かってるよ。ミナは男女問わずモテるから……。でも、ミナが私を選んでくれたからさ。大切にしたいって思ってるよ」
隣で交わされる会話に、わたしは一人ぽかんとしたままだった。わたしが……いい子? モテる? そんなの、全然そんなことないのに。むしろ、カナデが眩しすぎて、わたしの方こそ不釣り合いじゃないかって――いつも思ってしまうくらいなのに。
「奏ったら、本当に分かってるのかなあ。美奈ちゃん、もし奏に泣かされたら……私が絶対、守るからね」
無邪気に笑うほのかに、わたしは苦笑して頷く。カナデが隣で「二人とも……」と口をとがらせていたけど、その顔も、心配してくれるほのかの声も、全部が愛おしかった。ほのかにちゃんと伝えられて、良かった。引かれたらどうしようって――本当は、ずっと怖かった。いつか蒼との交際を伝えてくれた日菜子も、こんな気持ちだったのかもしれない。
机の下でそろりと手を伸ばし、カナデの太ももに触れる。気付いたカナデが、そっとわたしの手を握ってくれる。柔らかな温もりが指先から伝わってきて、それだけで胸がじんわりと満たされた。
「それにしても、あの奏に恋人ができるなんて……。本当、信じられないな……。奏、高校生になってすっごく変わった。奏の今までの選択は……間違ってなかった。全部、ちゃんと意味があったんだね」
そう言って、ほのかは穏やかに微笑んだ。カナデの過去を全て肯定してくれるようなその表情に、わたしの胸の奥まであたたかい光が差し込んでくる。
「そうだね。私は今まで……特に中学の頃は、ほのかのことも傷つけたし、後悔だって、たくさんある。でもさ、それでも……全部、今の私に繋がってる。きっとどれも、ミナに出会うためのものだったんだ。……そう思えたら、もう過去は怖くないよ」
その言葉に息を詰まらせていると、ぎゅっと手を握る力が強まる。カナデの横顔は真っ直ぐで、どこか救われたような色をしていた。
「……そっか。それなら私も安心だ。美奈ちゃん、奏のこと……どうかよろしくね」
ほのかの視線がわたしに向けられる。それはまるで、大切なバトンを託すような真剣な目だった。そんなほのかに、わたしはゆっくりと頷いた。ほのかにとっても、カナデは大切な人――だからこそ、カナデをわたしに託してくれたほのかの想いに、応えたい。心から、そう思った。
ほのかの微笑みに、胸の奥の不安が少しずつほどけていく。ああ、わたしたちはもう、大丈夫なんだ――そんな気がして、カナデの手を握り返した。




