第二十九話 世界の色(3)
カナデが持ってきた譜面台に、二つの譜面が並んでいる。波の音に交じって、無機質なメトロノームの音がスマートフォンから響いていた。
「……ミナ、じゃあいくよ」
掛け声に合わせて拍子を刻み、わたしは管の中に息を入れる。カナデが吹くファーストの譜面と、わたしが担当するサードの音色が、合わさって風に溶けていく。セカンドの音が抜けているから、綺麗な和音になっているとは言い難い。でも、それでも二つの音色が合わさって、確かに音楽を奏でていた。
カナデが何度も教えてくれた複雑なリズムが、わたしの身体に染み付いている。もう譜面を見なくても、指が勝手に動き出す。五線譜の上に書かれた汚いメモ、落としがちな臨時記号、目が追い付かなくて書き込んだ音……わたしの譜面は、もうすっかりくたびれていた。でも、もうこの譜面を見る機会も、きっと残り僅かだ。
「……すごいよ、ミナ。だいぶ吹けるようになってる。これで定演もバッチリだ」
マウスピースから口を外したカナデが、嬉しそうな声を上げる。わたしは息を整えながら、手に持った楽器を胸に抱いた。良かった。最初は難解に思えた譜面も、いつもカナデが一緒に読み解いてくれるから、少しずつ分かってきた。わたしがここまで吹けるようになったのは、きっと、カナデのおかげ。
照れながら笑うと、カナデはわたしの頭を撫でた。その掌に身を委ね、揺れる水面を静かに眺める。今までも何度も頭は撫でられていたけれど、恋人として撫でられると、やっぱり嬉しくなってしまう。
「良かった、カナデが懲りずに教えてくれたおかげ……それにしても、もう再来週が本番なんて。あっという間でびっくりするね。最初はカナデと別のパート吹くの、不安しかなかったんだけど……ほのかちゃんはもちろんだけど、ユズちゃん先輩も高洲さんも優しくリードしてくれて……本当、いつも助けられてる」
「そっか。それなら席が離れていても安心だ」
わたしの言葉を聞いたカナデは頭から手を離し、楽器を片手ににやりと笑った。その笑顔は、いつもわたしをからかうときに向けられる顔で。あっ、何か言うんだなってすぐに分かった。
「……じゃあもうミナは、私から卒業か」
「やだ、なんでそういうこと言うの? ……ずっと先生でいてくれないの?」
卒業、という言葉に胸がざわつく。そんなわたしを見たカナデは、軽い声で笑い飛ばした。
「ミナ、そんな泣きそうな顔しないでよ! ごめん、冗談だって。でも……そっか、ミナはずっと私に教えて欲しいのか。ふうん……私はミナの彼女で、先生……」
カナデは口元に手を持っていき、なんだか神妙な顔をして頷いている。爽やかな風がわたしたちの間を通り抜けて、波の音が響いていた。
「……そんなに求められるのも、悪くないね。っていうか……うん。嬉しいよ。すごく」
黒い短髪から覗いた耳が、赤く染まっていた。照れてくれているのが嬉しくて、つい背中に抱き着いてしまいたくなったけれど……ここは外だし、ぐっと堪える。カナデがそんなことを言ってくれたら、わたしはきっとどんどんカナデを求めてしまうだろう。でも……あんまりやり過ぎると、重いって思われそうだし。程々にしておかないと。
「ミナと付き合ってから、幸せだ。こんなに私のことを思ってくれていたなんて、本当……全然気付けなくて、ごめん。これからはミナに喜んでもらえるように、頑張るから」
わたしを見つめて、カナデが穏やかに微笑む。その笑顔に息が止まって、身体の芯から熱いものが込み上げてきてしまいそうだった。
「カナデ……。わたしも……」
言葉が詰まった。わたしのことを、もっと好きになってもらえるように頑張るから。……いや、違う。カナデにも喜んでもらえるように? ……それはそうなんだけど、なんか……ちょっと違うかも。わたしは、カナデにどうなってほしいんだろう。
「カナデのこと……もっと幸せにできるように、がんばる」
出てきた答えは、幸せになってほしいだった。わたしは、カナデにずっと笑っていてほしい。だから、わたしは彼女として、カナデの幸せを、ずっといちばんに考えていたい。
「今でも十分幸せなのに、もっとなの? ミナは本当に欲張りだね。……でも、一緒に、もっともっと幸せになろう」
再びわたしの頭に手を伸ばしたカナデに、笑いかける。これ以上幸せになっちゃったら、どうしよう。わたしは死んでしまうんじゃないかな……なんて、口が裂けても言えないけど。今のわたしは、たぶん世界一幸せだ。