第二十九話 世界の色(2)
……なんて思ったのもつかの間で。バスの中では周りに気付かれないように手を繋ぎ、二人でくすくすと笑いあった。撫でるように動く指がくすぐったくて、時々身を震わせてしまう。そんなわたしを、カナデは意地の悪い笑顔で眺めていた。
さすがに学校では自重していたけれど、休み時間にカナデの隣に立っていると、その手が時折わたしの手の甲を控えめに撫でていた。その度にわたしは小さく怒り、カナデの身体を突く。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、わたしはいつも通り弁当を持ってカナデの元に駆け寄ろうとする。その時ふと、教室を一人で出ていく男子生徒の背中が目に入った。誉田くん。ずっと言わなきゃと思ってたけど、今なら言えるかも。わたしはカナデに自分の弁当を押し付けて、「ちょっと待ってて!」と言って走り出した。
「……誉田くん!」
廊下に出たわたしは、彼の背中に向かって声を掛ける。昼休みの騒がしい廊下の中で、彼は静かに振り返った。わたしを捉えた瞳は一瞬大きく見開かれ、すぐに優しく細められる。
「……春日。えっと……どうした? この間は、変なこと言ってごめんな……。あの日の翌日、体調不良で休んでたって聞いたけど……本当ごめん」
彼は目を伏せて、気まずそうに頭を掻いた。彼にこんな寂しそうな顔をさせているのは、他でもないわたしだ。申し訳なさで胸が締め付けられたけれど、わたしは意を決して口を開く。
「こっちこそ、本当にごめんね……。あ、あのね、わたし……誉田くんのおかげで、勇気出せたんだ。だから……ありがとうって、それだけ伝えたくて」
小さく呟くと、彼は「えっ」と声を零し、わたしを見た。驚いたような表情が、次第に力なく綻んでいく。
「……そっか。春日が幸せなら、俺も嬉しいよ」
流れるように言われたその言葉に、息が止まる。穏やかに笑った彼は背中を向け、これからもよろしくなと言って手を振った。どんどん小さくなる背中を見つめながら、わたしは踵を返し、カナデの待つ教室に走り出す。
教室に入ってカナデを探すと、カナデの横に珍しく人がいた。凪と、凪を引っ張っている彩芽だった。カナデはすっかり不機嫌そうな表情になって、壁にもたれながら腕を組んでいる。
「カナデ……お待たせ」
苦笑しながら近寄ると、途端にカナデはわたしの腕を取り、行くよと言って引っ張り出す。
「美奈ちゃん! なんだあ、松風さんがついに美奈ちゃんに振られたのかと思って遊んでたのに。残念だよ。美奈ちゃん、もうトランペットなんかやめて、サックスにしない? いつでも教えてあげるよ」
「こら! 凪ちゃん! もー本当に……美奈ちゃんも松波さんもごめんね……ほら、凪ちゃんは私と一緒に昼練に行くよ! もう澪音ちゃん行っちゃったよ!」
彩芽はわたしに笑いかけ、凪の腕を引っ張って教室から出ていく。凪は姿が見えなくなるまで機嫌良さそうに手を振り続けていたけれど……隣のカナデの機嫌は最悪だ。
「ええと……カナデ、さん?」
笑いかけてみると、ぶすっとした表情のカナデと目が合った。
「ミナ……もうミナは、私から離れるの禁止だから」
そう小さく呟き、わたしを引っ張って地学準備室に足を進める。もしかして、ええと……これって、ヤキモチ?
「……やだ……カナデかわいい……」
つい言葉が漏れてしまい、はっとして口元を隠す。カナデは湿度を含んだ視線でわたしを見て、ふいと視線を外した。わたしの彼女、結構嫉妬深いんだなあ。昔のカナデはいつも余裕があって、飄々としていて、孤高という言葉が相応しかったのに。今はすっかり変わっちゃって……わたしのせいって、うぬぼれてもいいのかな。
我慢しきれず笑ってしまい、そのままカナデの腕に飛びついた。カナデはわたしの腕をがっちりと掴んだまま、むくれた顔で前を向いている。本当に、もう。そんな彼女が、たまらなく愛おしかった。