第二十九話 世界の色(1)
いつも通りの朝であるはずなのに。家を出た瞬間から、世界がほんの少しだけ、煌めく。道端で揺れる小さな花が目につき、初夏を思わせる爽やかな陽光が目に眩しい。すれ違った散歩中の犬が愛らしくて、つい可愛いと呟く。そんな些細なことをすべて、カナデに伝えたくなっていた。
カナデというフィルターを通して、わたしの世界はどんどん鮮やかに色付いていく。灰色の世界は、もうそこにはなかった。
改札の雑踏を抜けると、駅の柱にもたれかかっているカナデがいた。今日は珍しく、わたしの方が遅かったみたい。携帯を弄るでもなく、ただぼんやりとどこかを見つめながら、背中を静かに預けている。いつも通り、着崩した制服と楽器ケース。その姿を見ると胸が高鳴り、わたしは小さく深呼吸をした。ええと……わたしは今までどうやって、カナデに話しかけていたんだっけ。
「か、カナデ。おはよう……」
小走りで近付き、笑顔を作って声を掛ける。喉から出た声は、思った以上にか細く、震えていた。カナデは一瞬だけ肩をぴくりと震わせて、わたしを見た。そして安堵したように、身体の空気を抜く。
「……ミナったら、緊張し過ぎじゃない? なんか……ふっ……私も緊張してたけど、その顔見たら安心したよ。おはよう」
笑いながら、カナデの指が硬くなっていたわたしの頬を突いた。筋肉が優しい圧力に揉まれ、解れていく。
「だって……こ、恋人になってから、初めて一緒に登校するし……」
「そうだけどさ……変に意識されると、私まで照れるから。今まで通り、普通でいて」
そう言いつつも、その指は頬を突くのをやめたと思ったら、手を下ろして今度はわたしの手の甲を撫で始めた。久しぶりに感じた掌の温度に、身体が跳ねる。
「……もう、やめてよ!」
そんなわたしにカナデは笑い、手を放して楽器ケースを持ち直した。
「ふふ、ミナって本当……からかい甲斐があるよね……。じゃあ行こうか、ええと……私の可愛い、彼女さん?」
流れるようにわたしを見たその顔は、いつもよりちょっとだけ頬が染まっているように見えて。冷静になったらしいカナデは「……何言ってんだ私」と呟き、背中を向ける。髪の毛から覗いた耳が、真っ赤になっていた。
「ねえ、カナデ……恥ずかしがるなら、そんなこと言わなければいいのに……」
「……本当だよ。私も浮かれて、馬鹿になってるみたい」
漏れた本音につい吹き出し、腕を取ってバス停を目指す。照れたカナデは、わたしにされるがままだった。わたしたちは傍から見たら、どんな風に見えるんだろう。浮かれたカップルだと、思われているのだろうか。それとも……ただじゃれあっている、友達同士? どちらにしても、わたしとカナデはただでさえ学校で浮いているのだから、何か言われないように気を付けなきゃ。