第二十八話 繋いだ手の未来(1)
部屋のインターホンが鳴り響き、カナデと一緒に目を覚ます。ぼんやりとしながら上半身を動かすと、カナデの頭の下に敷いた腕が痺れていた。カナデもわたしが枕にしていた腕が痛いようで、苦笑しながら身体を起こす。
「……腕が痺れてる。でも、なんか……幸せだね」
カナデはそう言ってベッドから立ち上がり、寝ぐせ頭のまま扉に向かう。気が付けば部屋には西日が差し込んでいて、ずいぶん長い間眠っていたようだった。制服もしわくちゃになっていて、手櫛で梳かした髪の毛も、きっとぼさぼさになっているだろう。
ドアを開ける音と同時に、舌打ちが聞こえてきた。カナデの背中を追って部屋の入り口に向かうと、同じ班の三人が肩を並べている。
「……ったく、体調不良で休むとか、マジ舐めてんの? お邪魔するわよ」
今日も鋭い眼光で澪音はわたしたちを睨みつけて、部屋の中にずけずけと入っていく。その後ろを凪が遠慮なく付いていき、相変わらずの彩芽がごめんねと謝罪を繰り返していた。部屋に入った澪音は辺りを見回し、「は?」と小さく声を上げる。
「片方のベッド使ってないって……まさかアンタたち、マジでデキてるんじゃないでしょうね……」
ドン引きみたいな顔をして、澪音は身体を引きながらわたしたちを睨む。どきりとして、「これには事情が……」と言い訳を並べようとすると、彩芽が「澪音ちゃん!」と頭を引っぱたいた。
「……春日さん、松波さん、ほんっと澪音ちゃんが……デリカシーなくて、ごめんね……!」
「はは、澪音はまだ子供だから。恥ずかしがってる澪音も可愛いよね。それより……美奈ちゃん。体調はもう大丈夫? 美奈ちゃんと回れなくて、寂しかったよ」
優しい顔をした凪がわたしに近づいてきて、身体に手を伸ばそうとする。驚いて一歩距離を取ると、後ろから突然肩を抱かれた。カナデだ。
「……浜野さん。ミナは私のだから。そういうことをされると、不快だ」
夕方の静かな部屋に、カナデの声が響く。彩芽は息を呑み、澪音は興味なさげな顔をして突っ立っていた。ただ、凪の両目が僅かに揺れ、へえと小さく声を上げる。
「……松波さん。やっと大人になれたんだね、つまらない」
凪は表情を変えないまま口角だけ上げて、背中を向けた。「あーあ、つまらないなあ」とおどけたように呟き、軽い足取りで今度は彩芽の肩に手を伸ばす。彩芽は目を見開いて、その手を勢いよく叩いた。
「もう! 凪ちゃんもいい加減にして。それより、ほら、澪音ちゃん。渡すんじゃなかったの?」
彩芽の言葉を受けた澪音は小さく舌打ちをして、手に持っていた紙袋を突きつけた。カナデと顔を見合わせて、手を伸ばす。
「ちっ。なーんであたしが、サボってた奴らにこんなものを渡さないといけないわけ? 言い出しっぺの彩芽が渡しなさいよ」
視線を外したままの澪音から紙袋を受け取って、中身を覗いてみる。銀色の保冷シートに包まれた、薄い箱が入っていた。
「これ、今日のお土産。良かったら、あとで二人で食べて。澪音ちゃんが選んだ生チョコが入ってるよ」
「村田さん……。ありがとうね。浜野さんも……葛城さんも、ありがとう」
一人一人を見つめながら、お礼を言う。穏やかに笑う彩芽、余裕のある笑顔でわたしを見ている凪、そして、さっきから全く目線が合わない澪音。何だかんだ色々あったけど、この三人の優しさが、じんわりと胸に沁みていた。横に立っていたカナデに視線を向けると、小さくありがとうと呟いていた。
「じゃあ、長居しちゃ悪いし、私たちはこれで。ほら、二人とも行くよ」
彩芽の声を受けて、澪音は「やっと終わったわ」とせいせいしたように言い、一人で部屋から出て行ってしまう。彩芽の小さな溜息が部屋に落ち、二人は澪音の背中を追っていく。
「松波さん、お幸せに。でも、まあ……あんなに子供で鈍感なようじゃ、すぐに愛想尽かされてしまうかもね。美奈ちゃん、いつでも私のところに来ていいからね」
去り際、凪はわたしたちを眺めながら、カナデを挑発するように微笑んだ。もしかして、全部見抜かれていたの? 穏やかな視線にきゅっと心臓が縮こまり、息が止まる。カナデは相変わらず凪を睨みつけたまま、口をかたく結んでいた。
「こら、凪ちゃんったらまたそういうことを……春日さん、松波さん。本当……お騒がせしました……色々迷惑かけてごめんね。修学旅行まで色々あったけど……支えてくれて、ありがとう」
扉の前で、気付いたら凪に背中を抱かれていた彩芽が、困ったように笑って小さくお辞儀をする。最終日の明日は自由行動の日で、班行動は今日で終了だった。そう思うと、なんだか少しだけ寂しくなってしまう自分がいる。わたしは一歩踏み出して、彩芽に近づいた。
「村田さん……わたしたちこそ、最後までたくさん迷惑かけちゃって、ごめんね……村田さんがいてくれて、本当、良かった。あのさ、もし良かったら……これからも、仲良くしてくれるとうれしいな」
わたしの言葉を聞いた彩芽が顔を上げて、眼鏡の向こう側の瞳を丸くする。隣のカナデが、驚いたようにわたしを見ていた。柄にもないこと言っちゃったかな、迷惑かな……と思っていると、彩芽の笑顔が花開く。
「春日さん……ううん、美奈ちゃん! そんなの、こっちこそだよ! これからもよろしくね!」
「美奈ちゃんがそんなこと言ってくれるなんて嬉しいな。これからも仲良くしようね」
両手をぎゅっと握りしめて嬉しそうに笑う彩芽を抱きながら、凪が微笑む。その様子を見て、カナデが小さく舌打ちをした。
「……ミナは村田さんに言っただけで、浜野さんに言ったわけじゃないから。調子に乗らないで」
「うわ、松風さん怖。そんな様子じゃ、時間の問題かな。仕方ないから松風さんも、これからも仲良くしようね」
凪が珍しくカナデに手を伸ばそうとすると、カナデは表情を変えないままその手を叩いた。つい、こらと腕を引っ張ってしまう。
それじゃあね、と手を振りながら、彩芽と凪の背中が遠ざかっていく。二人を見送って、カナデと一緒に部屋に戻った。さっきまでの騒がしさが嘘のように、二人きりの静寂が戻ってくる。
「ミナがあんなこと言うなんて。ちょっとびっくりした」
扉を閉めるなり、カナデがぽつりと呟いた。そんなの、わたしだってびっくりだよ。でも、なんだか……彩芽との関係を今日で終わりにしてしまうのは、少しだけ勿体ないような気がしていた。
「……彩芽ちゃんとは、なんだか仲良くなれるかなって思っちゃって」
頬を掻いてカナデを見ると、ふうんと言葉を漏らし、つまらなさそうな顔をして近づいてくる。長い腕が伸びてきて、正面から静かに抱きしめられた。
「ちょっと、カナデ! 何するの」
「別に……」
薄暗くなった部屋の中、すっかり言葉少なになってしまったカナデが、わたしの背中に腕を回している。もしかして、また拗ねているのだろうか。なんだか最近のカナデは、子供っぽくて、余裕がない。でも、そんな姿も可愛くて、愛おしくて、どうしようもなかった。わたしは本当に、カナデに夢中になってしまっている。どんな姿を見ても、絶対嫌いになんてなれないだろう。
「もう、カナデったら……好きだよ」
何の脈略もなく耳元で愛を囁いてしまう程、わたしは馬鹿になっていた。今まで言えなかったぶんを、埋めるように。きっと何度も何度も、愛を伝え続けてしまうんだろう。言葉を受けたカナデは小さく笑って、抱きしめる腕の力を強めてくれた。