第二十七話 恋を教えて(4)
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「美奈氏、朝ご飯どうする? 無理そうだったら……美奈氏は休んでるって伝えとくけど」
翌朝、朝食の集合時間前に若葉がドアノブに手をかけながらわたしに訊いた。その横には、心配そうな顔をした日菜子と冬子が並んでいる。制服に着替えたわたしは苦笑して、お願いしてもいいかなと呟いた。
部屋に一人取り残され、ソファーに身体を預けながら考える。今日は一日班行動の日だけど、正直気は進まない。それに――昨晩は全く眠ることができなくて、頭はぼんやりと靄がかかったようだった。
いいや、サボっちゃおう。カナデのことは心配だけど、もうわたしがしてあげられることは何もない。それに……案外わたしがいない方が、上手く回るのかもしれないし。
朝食を終えた三人にお礼を言って、部屋を出た。いつでも来ていいからね! と言ってくれた優しさに、また涙が出そうになってしまう。カナデに鉢合わせしないよう気を付けながら、ホテルのロビーをうろうろとして、新町先生を見つけ出す。体調が悪いから休ませてほしいと伝えると、実際にわたしの顔が死んでいたせいか、すぐに了承してくれた。養護の先生を付き添いに付けようかと言われたけれど、そこまでのレベルじゃないからと丁重に断った。
ホテルの化粧室の個室に立てこもり、集合時間を過ぎて同級生の気配が無くなったことを確認して、そそくさと部屋に帰っていく。どきどきしながらルームキーをかざして扉を開けると、部屋にカナデの姿はなかった。ほっと胸を撫でおろして、使われていないベッドに座り込む。
隣のベッドは布団が乱れたままで、乱雑に脱ぎ捨てられた部屋着が置いてあった。つい手を伸ばしそうになって、ぐっと堪える。もうわたしには、その部屋着を畳んであげる資格はない。
制服のままベッドに倒れ込んで、天井を見つめる。頭がぼんやりしていて、でも胸だけが騒がしくて、息苦しかった。 ……わたし、これからどうしたらいいんだろう。カナデとは、もう、今までみたいに仲良くなんてできない。わたしが壊したんだ。もう、口もきかなくなるのかな。きっと、避けられる。寂しい。怖い。嫌だ。楽団も定演前なのに、どうすればいいんだろう。そもそもトランペットすら、もうわたしは――きっとできない。カナデと同じ場所で音を出すなんて、許されるはずがない。
ぐるぐる、ぐるぐる。いろんなことを考える。考えるたびに、後悔をする。全部、全部、わたしのせいだ。カナデを失って、好きなものまで、全部失って。どうして、こんな簡単に壊してしまったんだろう。わたしは本当に、馬鹿だった。こんなふうに後悔するくらいなら――あんなこと、言わなきゃよかった。
目尻から涙がこぼれ落ちたとき、部屋の鍵が開く音が響く。心臓が跳ねて、慌てて身を起こした。先生? それとも、まさか……。
「……ミナ……?」
部屋に入ってきたのは、制服姿のカナデだった。もうとっくに班行動が始まっている時間で、ここにはいないはずだったのに。
「……カナデ……どうして」
呆然と立ち上がり、隠すように涙を拭う。目が合ってしまったその瞬間、カナデはわたしに駆け寄ってきて――
「ミナのバカ……心配したよ……!」
力強く、抱きしめられる。肩に顔を埋めたカナデの声が、かすかに震えていた。すすり泣くような、か細い呼吸が耳に触れる。もしかして、泣いてる……? わたしは、何も言うことができなくて。宙に浮いたままの両手も、カナデの背中に触れる勇気すら持てなかった。
「ごめん……ごめんね、ミナ……。私、ミナのこと……すごく傷付けてた……」
カナデの声は、涙で滲んでいた。それでも、わたしは言葉を返せない。自分が何をどうしたらいいのか、まったく分からなかった。なのに、カナデは――わたしの頭に、そっと手を置いた。子どもを慰めるみたいに優しく、温かく撫でてくれる。
やめて。そんなこと、しないで。優しくされたら、わたし――また、期待してしまうから。
「昨日ミナが言ってくれた“好き”って……私の“好き”とは、違うって……。やっぱり、そういう意味だったんだよね……? 最初は分からなかった。でも、気付いたとき……嬉しかったんだ……」
心臓が跳ねる。カナデの五本の指が、わたしの髪を掬っていく。さらさらと髪が重力に靡いて落ちていって、何度も、何度も――まるで、愛おしむように。
「正直、恋愛ってよく分からないんだ。でも、ミナがいなくなるのが怖くて……昨日のミナの言葉で、初めて気付いたよ……。私、ミナを失いたくない……」
そう言って、カナデはそっとわたしから離れる。小さく距離を取って、潤んだ瞳で真正面からわたしを見つめた。肩に添えられた手が、かすかに震えている。頬が赤くて、唇はわずかに震えていて。だけど――今まで見たどんな顔よりも真剣で、真っ直ぐだった。
「……私……ミナと一緒に、恋愛をしてみたい。ミナさえよければ……私と付き合ってほしいんだ」
時が止まったような、静けさだった。目の前のカナデの瞳が、わたしだけを映している。息を呑んで、その瞳に吸い込まれる。目尻から一筋涙がこぼれて、わたしはただ、頷くことしかできなかった。
「……本当? やった、ミナ……ありがとう。こんな私を好きになってくれて、ありがとうね……」
再び伸びてきた両腕が、わたしを包む。カナデの体温が、鼓動が、わたしをじわじわと温めていく。カナデの放った言葉の意味が、心に少しずつ染み込んできた。頭はまだ整理できていなかったけれど、きっと今、わたしは――ようやく、カナデの恋人になったんだ。
震える指先で、そっとその背中に触れた。カナデが少しだけ身をすくめて、それから嬉しそうに微笑む。
あったかい。このぬくもりが、恋なんだ。愛なんだ。
そっと抱き返した腕の中に、言葉はなかったけれど――確かに、恋の始まりが宿っていた。