第二十七話 恋を教えて(1)
誉田は、わたしを人気のない非常階段に連れてきた。辺りはぼんやりと薄暗く、気味が悪いほどに静かだった。ただ、彼の息遣いと、わたしの心臓の音だけが聞こえていて、妙に居心地が悪い。彼は緊張したような面持ちで、口を開こうとする。本当は、やめて欲しかった。だけど、わたしはもう逃げられない。
「……春日、単刀直入に言う」
一度だけ息を呑んで、彼は真剣な瞳でわたしを見た。
「好きだ。俺と……付き合ってほしい」
嫌になるくらいの真っ直ぐな言葉は、わたしの胸の奥に、冷たい石が落ちたようだった。彼がわたしを見つめる視線が、どうしようもなく痛い。
「……なんで……」
乾いた口から、気が付けば言葉が漏れていた。だって、わたしは彼のことを、何も知らない。彼だって、わたしのことを何も知らないはずなのに。どうしてそんなに簡単に、好きだなんて言えてしまうんだろう。
わたしは……わたしはまだ、本当に好きな人に好きだなんて、言ったことがないのに。怖くて、言えないのに。
「……去年から、春日のこと、いいなって思ってて。笑った顔とか可愛いし。……この間、喧嘩してただろ? 俺、偶然見かけてて。正直、びっくりした。あんなに真剣に誰かのために怒れるヤツなんだって。狂犬の春日なんて呼ばれてるけど、格好いいなって思ったんだよ、あのとき」
照れくさそうに笑って、彼はわたしを見た。わたしのことを、そんな風に見ていた人がいたなんて。わたしはいつもカナデのことしか見えていなくて、何も……気付くことが、できなかった。
誉田は、良い人そうな風貌だ。短く切り揃えられた黒い髪は清潔感があって爽やかだし、程々に筋肉の付いた男の子の身体は、逞しくてどきりとする。落ち着いた大人っぽい見た目だけれど、笑顔が少しだけ子供っぽい。
わたしを優しく見つめる彼を見ながら、考える。わたしのことを、好きだと言ってくれる男の子。こんな人と付き合ったら、きっと幸せなんだろう。……わたしが彼と付き合えば、『普通』の幸せが手に入る。親や周りにも祝福されて、誰にも後ろ指をさされずに、手を繋げる。
だけど、それはわたしじゃない人生みたいで、怖い。だって、わたしはカナデが好きだから。
でも……わざわざ女の子のカナデに告白して、カナデのことを巻き込んで、普通じゃない、いばらの道を歩む覚悟はあるの? そもそも、振られてしまうかもしれないのに。それなら……わたしを好きだと言う彼と一緒にいたほうが、幸せになれるんじゃないの?
手が震えていた。カナデ……わたし、どうしたらいい?
沈黙していたわたしに気を遣って、彼は静かに微笑んだ。
「突然ごめんな。返事は……今度聞かせてくれたら、大丈夫だから」
じゃあ、と言って去ろうとする背中に、呼びかけた。色々考えたところで、わたしの気持ちは……そんなの分かり切っている。
「……ごめんなさい。わたし、誉田くんとは付き合えない」
振り返った彼の目を見つめて、頭を下げる。せめて、彼がわたしに気持ちを伝えてくれた時と同じように。わたしも彼に、真剣に向き合おうと思った。
「……そっか。……ほかに、好きな人がいるとか?」
寂しそうに笑った彼に、頭を上げて頷く。沈黙がわたしたちの間を満たし、彼は力を失った声で「誰か聞いても大丈夫?」と囁いた。
「……カナデ」
そう呟いたわたしの言葉に、彼はゆっくりと、確かに驚いたように目を見開いた。息を呑む音がする。わたしはそんな彼に構うことなく、言葉を繋げる。
「……わたしは、友達の……松波奏が好き。だから、誉田くんと付き合うことは、できない」
時間が止まっていた。彼の瞳は動揺に揺れていて、わたしに何かを言おうとする気配を感じた。彼が言おうとしていることは、分かっている。
「……松波って……女じゃないか……」
絞り出された声に、苦笑する。わざわざそんなこと言われなくたって、わたしだって知ってるよ。
「……でも、好きなの」
だから、どうか、わたしのことは諦めて。そう目で訴えかけると、彼は頭を抱えて溜息を吐いた。彼が今、一体何を思っているのか。そんなことは分からないし、知りたくもないし、知らなくて良い。
「……分かったよ。教えてくれて、ありがとうな。大変なこととか……色々あると思うけど。春日のこと、応援してるよ」
彼は乾いた声でそう言って、わたしを一人取り残して階段を下っていく。その背中をしばらく見つめ、姿が消えたところで大きく息を吐いた。……言ってしまった。手すりに身体を預け、そのままずるずるとしゃがみ込む。
……ごめん、ごめんね、カナデ。好きになって、本当にごめん。誉田くんの気持ちを聞いて、わたし、ちょっとだけ分かっちゃったんだ。
好きって言われて、心のどこかがざわついた。興味のない人からの好意って、ちょっと怖くて、気持ち悪い。もしもカナデが、わたしにそんな気持ちを抱いたら……想像しただけで、怖くなった。カナデにこんな思いをさせるわけには、いかない。
「カナデ……」
唇から声が漏れる。身体を抱いて、一人小さく震えていた。