第二十五話 狂犬の噂と初心者(3)
「葛城さん。わたしはまだ全然初心者で……葛城さんの気持ち、わかるよなんて、簡単に言っちゃいけないんだと思う。でも、葛城さんが今までずっと真面目に……一生懸命頑張ってきたんだなってことは、すごく伝わって来た。本当に、すごいと思うし尊敬する。わたしには、今までそういうものってなかったから」
わたしの言葉を聞いた澪音が、呆れたような視線を送ってくる。怖かった。両脚は今にも震えそうだし、できることなら逃げ出したかった。でも、ひるんじゃだめ。澪音から目を逸らさず、カナデの腕を掴む両手に一層力を込めて、口火を切る。
「わたし、初心者だからよく分からないけど……勝つとか負けるとかじゃなくて……楽しいとか、好きとかだけじゃ、だめなのかな。それだけじゃ……楽器を吹く理由に、ならないのかな。わたしはまだ下手くそで……葛城さんみたいに、誰かに勝ちたいって気持ちもない。だから舐めてるって言われても仕方ないって思ってる。でも、それでも……わたしはトランペットを吹きたい。わたしの中の好きって気持ちを、大切にしたいの」
澪音を見据えて、声が震えないよう力を込めて、静かに言った。カナデは小さく息を呑んで、じっとわたしを見つめている。俯いた澪音はしばらく何も言わず、小さく舌打ちをして顔を上げた。
「……さすがね、春日さん。ぬるいことばっかり言って、アンタは何も分かってない。正論振りかざしていい気になってるのかもしれないけど、そういうところもムカつくのよ。反吐が出そうだわ。ほんとにそれで満足なの? ……まあ、別にどうでもいいけど。甘ったれた者同士、勝手に仲良くやってれば? あたしには、関係ないから」
澪音はわたしを鼻で笑って、踵を返す。その背中を、ぐっと堪えながら見つめていた。
……わたしが迷ってたのは、きっと、自分の気持ちだったんだ。澪音の言うとおり、わたしは甘ったれなのかもしれない。でも……わたしは自分の好きだという気持ちを、信じたい。だから、もう、ちゃんと吹いてみせる。
澪音の背中が見えなくなった途端、張り詰めていた力がふっと抜けて、その場にへたり込んだ。驚いたカナデが、わたしの身体を支えてくれる。
「こ……怖かった……」
息を吐きながら、情けない声が漏れる。するとカナデの手が、そっとわたしの髪に触れた。先ほどの澪音のマジでキモいという言葉が胸に突き刺さっていたけれど、それを振り払いたくて、カナデの手を握りしめる。
「ミナ……凄かったね。葛城さんに言い返すなんて。ミナの気持ち、痛いほど伝わってきたよ。私も……ミナが吹く理由は、それでいいと思うんだ。というか、楽器を勧めたのは私だし……好きって思ってくれてて、ありがとう」
落ち着いた表情に戻ったカナデの髪が、春の風にそよいでいた。波の音を聞きながら、カナデと二人で過ごす時間が好きだと改めて実感する。もう誰にも邪魔されたくないな。マジでキモくても……もういいや。
「……でも、私も葛城さんの気持ちは、分かるような気がするんだ。私も昔は、兄貴に負けたくなくて、ただがむしゃらに吹いていて、周りのこと見えてなかったし。もし……兄貴が今でも楽器を続けていて、私より上手いままだったら。もしかしたら……私も葛城さんみたいに、なってたかもしれないね」
わたしたちは手を繋いだまま、ゆらめく水面を眺めていた。カナデの手は、少しだけ汗ばんでいて、でもそれが、どこまでも優しかった。ぎゅっと握り返すと、カナデの指先がわたしの指にそっと絡んでくる。きらきらと輝く陽光が、ざわついた心を少しずつ癒してくれる。カナデの手を握りしめたまま、わたしは立ち上がった。
「……わたしも、練習しようかな。きっと、もう……大丈夫だと思うんだ」
声が少し震えていた。だけどそれに気づかないふりをして、カナデはわたしの手を握っていてくれた。
「……ねえ、カナデ」
名前を呼んだだけで、胸がいっぱいになる。誰にどう思われたっていい。わたしは、カナデが好き。ただ、それだけだった。
「わたしに、トランペットを教えて欲しいの」
カナデは穏やかな顔をして、わたしの名前をそっと呼び返してくれた。
「……ミナ、ありがとう。じゃあ……一緒に吹こうか」
カナデの優しい笑顔に胸が熱くなって、繋いだ手を強く握り返す。カナデへの想いは、わたしの音に込めよう。春の風がふたりの髪を揺らして、今日からの練習が、きっと少しだけ特別なものになる――そんな予感がしていた。