第二十五話 狂犬の噂と初心者(2)
防波堤で潮風に吹かれながら、楽器を見つめていた。相変わらずわたしの冴えない顔が、金色のベルに反射している。隣ではカナデが、ゲールフォースのソロを練習していた。いつもは胸にすとんと落ちてくるカナデの音色が、どうしても、今日は響かなかった。
「……ミナ、無理してない?」
楽器を持って座り込んだままのわたしに、フレーズを吹き終えたカナデが話しかける。その表情はやっぱりどこか沈んで見えて、気を遣ってくれていることが分かってしまう。カナデのために、元気にならなくちゃ。もうやめようって言ったのは、わたしなのに。でもやっぱり澪音の言葉が胸に突き刺さっていて、落ち着かない。
『松波奏も腑抜けたもんよね。春日さんって初心者でしょ? 初心者のお遊びに付き合ってあげてるなんて、昔のアンタの見る影もない』
『初心者のくせに、吹部にも入らず、去年から楽器を持ってヘラヘラして……舐めてんの? そんな風に、適当にトランペット吹いて……ずっと目障りだったのよ』
澪音の怒りを押し殺した声が、耳の中に残っていて、何度も反芻される。気にしちゃいけないって分かってるけど、わたしはどうしてもその言葉から抜け出せない。わたしが楽器をすることで、誰かにこんな風に思われていたなんて……想像もしていなかった。それに、カナデのことだって。澪音の言う通り、わたしなんかに付き合わせるのは、やっぱり申し訳ないと思ってしまう。
「ミナったら……葛城さんのこと、気にしてるんでしょ」
楽器を片手に眉をひそめていたカナデが近付いてきて、わたしの頭に手を置いた。そして優しく撫でられる。
「あんなの……完全に八つ当たりでしょ。気にすることないんだよ。ミナは十分頑張ってる」
春の爽やかな風が、わたしの髪の毛を揺らしていく。東京湾は今日もきらきらと輝いていて、水面は穏やかに波打っていた。こんなに素敵な陽気なのに、わたしの心だけが、ざらざらと毛羽立っている。
「……アンタたち、ここでイチャつくとか、頭おかしいんじゃないの? マジでキモいんだけど。もしかして、デキてんの?」
背後に人の気配を感じ、慌てて振り向く。そこには、楽器ケースを持った澪音が一人で立っていた。目が合った瞬間、穏やかな空気が一瞬で張り詰め、カナデが一歩前に出る。
「ま、どうでもいいけど。他人の恋愛事情なんて、死ぬほど興味ないし、キモ過ぎて知りたくもないわ」
「……葛城さん、何の用」
カナデのいつもより低い声が、落ちていく。今にも飛び掛かりそうな気配を察知して、わたしはカナデのブレザーの裾を掴んだ。
「……ちっ。別に喧嘩しに来た訳じゃないのよ。彩芽にも、凪にも、新町先生にもめちゃくちゃ怒られたし。部活なんて、一週間の謹慎よ? 皮肉なもんよね。あたしは誰よりも練習してたのに、行けないなんて……」
俯いた澪音の表情に、影が差す。長いスカートが風に揺れて、澪音は何かを堪えるように、楽器ケースを握りしめていた。
「さっき、松波さんの演奏、聴かせてもらったけど。相変わらずね……アンタは昔から……ほんっと気に入らない。先輩は未だに松波奏は入部してくれないのかってうるさいし、あたしがどれだけ吹部で一番上手くなったとしても……松波奏は越えられない……ムカつくムカつく! 本当にムカつく!」
澪音が首を振る度に、ポニーテールが軽く揺れる。怒り、嫉妬、羨望。色々な感情がぐしゃぐしゃになって、澪音は子供のように喚いていた。初心者のわたしが今の澪音にかけられる言葉は何もなかったし、カナデの言う通り八つ当たりだ。
「アンタは毎日ヘラヘラと春日さんのお遊びに付き合ってて。それなのに……なんであんな音が出せるのよ? あたしは必死なのに……」
澪音は唇を噛んで、涙を堪えるように俯いた。か細い声が、波の音に飲まれていく。海の音だけが、わたしたちの間に静かに響いていた。
「……葛城さん」
怒りを帯びた冷たい声が響き、わたしは立ち上がってカナデの腕を取った。澪音を睨みつける表情はどこまでも冷ややかで、背筋が凍ってしまいそうだった。
「だめ。カナデ……やめて」
腕をぎゅっと掴んだまま、首を振る。カナデは不満げな顔をしながらも、上がっていた肩を下ろしてくれた。それに胸を撫でおろし、澪音を見据えた。