第二十五話 狂犬の噂と初心者(1)
澪音との騒動で早速浮いてしまったわたしたちは、一年生のころと同様に、地学準備室で昼休みを過ごしていた。喧騒と好奇の目から離れ、カナデと二人で過ごすことができるこの部屋は、教室よりもずっと息がしやすかった。カナデはわたしの額の傷を見るたびに、目を伏せて表情を曇らせる。そのたびに、わたしは気にしないでと笑うしかなかった。
静かな声で雑談を交わしていると、扉が控えめにノックされる。新町先生だろうかと返事をすると、僅かに開いた隙間から、若葉が顔を覗かせた。
「あっ。美奈氏いたー。良かったーって……うお、なんか怪我してる」
わたしの額を見て、若葉がぎょっとしたように目を開く。その後ろには日菜子と、若葉の文芸部の友人……桜木冬子が並んでいた。三人が部屋に入るなり、日菜子が額を見つめたまま、おずおずと声を出した。
「美奈ちゃん……噂、聞いたよ。大丈夫?」
「えっ。……噂って?」
何のことか分からず呆然としていると、若葉と日菜子が顔を見合わせた。気まずそうな顔をした若葉が、口を開く。
「……新学期早々、G組で女子が取っ組み合いの喧嘩したって噂が流れてて。美奈氏がって聞いて、ほんとビックリした。でも……なんか、理由があるんだよね?」
若葉の言葉に、胸が締まる。カナデが「は? 何それ」と立ち上がり、怒りを滲ませた。
「ちょっと、カナデ……落ち着いて」
慌ててカナデの後ろに走っていき、その肩に手を置いてそっと宥める。カナデはむすっとした顔をしたまま、椅子に座った。
「ミナは、私を庇ってケガしただけなんだ。……ミナは何も悪くないよ」
「そんな感じだろうと思ったよ。美奈氏が喧嘩とか……するイメージないもん。でもさ……狂犬の春日って、噂されてる」
「えっ。狂犬って……わたしが?」
驚きに、つい声が震える。カナデの怒った目を見ると、澪音の視線が脳裏に蘇り、胸がざわついた。「気にしないで、結構かっこいい二つ名だと思うよ」と笑ってみせるけど、心は重い。
「……そもそも、葛城澪音が元々狂犬の澪音って呼ばれてて。同じ中学だったけど、あの子、昔から短気で、よく揉めてた……。吹奏楽部に入ってて、トランペットは上手かったみたいだけど。気が強くて、友達にはなりたくないタイプだった。春日さん……災難だったね」
若葉と日菜子の後ろに隠れていた冬子が、初めて声を上げた。なるほど、狂犬の澪音……その言葉はなかなか言い当て妙だと思ったけれど、わたしまで狂犬になるのはどうしてだろう。澪音に飛びかかったから?
「美奈ちゃん、そんな子と一緒のクラスで……大丈夫? ひどいことも、色々言われたんじゃない?」
日菜子が不安げな顔をして、わたしを見た。相変わらずの優しさに、胸がじんわりと温かくなる。カナデの肩に手を置いたまま、俯いた。
大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれたら、本当は大丈夫じゃない。澪音の突き刺すような眼は思い出すだけで心臓が縮こまるし、次はどんなことを言われてしまうんだろうとヒヤヒヤする。それに、またカナデを傷付けられるのも怖かった。わたしの身体にはどれだけ傷が付いても構わないけど、カナデを傷付けることだけは、許せなかった。でも、わたしは……大丈夫だって、虚勢を張って、言い張るしかない。
「ううん。わたしは平気。それに、カナデもいてくれるから……心強いよ」
「ミナ……」
椅子に座ったままのカナデが顎を持ち上げて見上げてくるものだから、つい笑ってしまう。きっと、一人だったら耐えられない。でも、カナデがいるから。カナデのために、もっと強くなりたいと思った。
「……松波奏、美奈氏のことよろしくね」
「分かってる。次は絶対……ミナのこと、守ってみせるよ」
心配そうな顔をしている三人に、カナデは小さく頷いた。わたしって、そんなに弱そうに見えるのかな。
「カナデったら……それならわたしも、カナデのことを守るから」
カナデの肩に置いた手に、わたしの決意を込めるように力を入れた。カナデを守りたい、その気持ちだけは本物だ。でも……手が少しだけ震えているのに、カナデは気付かないでいてくれただろうか。