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第二十四話 トランペットの影(4)

 保健室にはちょうど養護の先生がいて、額の傷を見てもらえた。「このくらいなら痕にもならないわよ~」と笑われながら、傷に消毒液を塗られる。沁みる痛みに思わず涙がにじんだけれど、唇を噛んでぐっと堪えた。


 椅子に座ったまま、絆創膏を貼られた額と、擦りむいた膝を見下ろして、思わず笑ってしまう。こんなに怪我をするなんて……ちょっと情けなく思いながら、息を吐く。そんなわたしの横で、カナデはずっと無言のままだった。だけど、先生が離れた隙に――静かに、そっと手を伸ばして、わたしの髪を撫でていた。その指がかすかに震えていたのに、わたしは気づかないふりをした。


 手当をしてもらって保健室を出ると、廊下には誰もいなかった。日はもう傾きかけていて、窓からの光が淡く床を照らしている。わたしたちは並んで歩き出したけれど、カナデがふと立ち止まった。


「……カナデ? どうしたの?」


 振り返ると、カナデは何も言わずに、じっとわたしを見つめていた。焦点の合わない目の奥で、何かが揺れている。そのまま、ふらりと一歩近づき、わたしの身体に腕を回した。


「……えっ」


 カナデの顔が、わたしの肩に埋まる。無言のまま、ただその腕だけが、わたしをぎゅっと抱きしめた。息が止まりそうになった。何が起きているのか、頭が追いつかない。けれど、カナデの震える指先が、背中を撫でているのが分かって――


「ちょっ……カナデ……!」


 戸惑っていると、耳元でふっと息がかかる。その吐息に、わたしの髪がわずかに揺れた。


「……本当に、心臓が止まるかと思った」


「……え?」


「ミナが倒れて、血が出て……私のせいだ。ごめん……」


 それは、いつものカナデからは考えられないほど――弱く、かすれた声だった。だけど確かに含まれるその熱が、真っ直ぐに胸の奥まで届いてくる。わたしはそっと、カナデの背中に手を回した。その身体は、思っていたよりずっと……細く、華奢な背中だった。カナデの肩が、震えている。


「やだ、カナデ……もしかして、泣いてるの……?」


 そう問いかけると、カナデは少しだけ身体を揺らして――離れる代わりに、もっと強く抱きしめてきた。


「絶対見ないで。ミナ……なんであんな無茶したの。楽器なんて……」


「そ、それは……つい、身体が動いちゃって……」


 苦笑すると、その言い訳を遮るように――カナデの声が落ちてきた。


「……ミナのバカ。楽器よりも……私はミナの方が、大事なんだよ。……ミナが傷付くのが、耐えられない」


 その言葉が、心臓の真ん中に突き刺さった。大きく鼓動の音がして、世界が止まる。思考が一瞬で吹き飛んで、言葉が見つからない。だって、あのカナデが……トランペットを何よりも大切にしているカナデが……そんなことを言うなんて。そんなことを、カナデに言わせてしまうなんて。わたしは今、なんて応えればいいんだろう。


「……カナデ……」


 少しだけ硬い髪が頬に触れて、カナデの熱がすぐそこにある。鼓動、息づかい、涙の気配――すべてがわたしを貫いてくる。好きだと言いたい。今すぐ、言いたい。でも――その言葉だけは、喉の奥で震えて動かない。言ったら、壊れてしまいそうで。言ったら、今の関係が変わってしまいそうで。怖くて、踏み出すことなんて――できない。


「……ありがとう、カナデ。心配かけて、ごめんね」


 やっとの思いでそう囁いて、カナデの肩に、そっと額を預けた。カナデは何も言わず、ただ、頷いた気がした。その腕の温もりが、少しだけ、強くなった。


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