第二十三話 名前を並べて(3)
桜の舞う校門を潜りぬけると、昇降口の横に立てられた看板前に人だかりができていた。その様子は、入試の合格発表の日を思い出させる。
「ミナ、行こうか」
さすがに学校内で手を繋ぐわけにもいかないから、カナデがわたしのブレザーの裾を引っ張った。わたしは頷き、強張った脚を一歩踏み出す。人混みの中で、同級生と思われる女の子たちが、黄色い歓声を上げて抱き合っていた。騒がしい群衆をかき分けながら、わたしは看板に近づいていく。A組から、五十音順に名前が並んでいて……ええと、ま……まつなみ、どこ?
「あっ。日菜子と若葉はE組だ。あの二人、また同じクラスなんだ」
横に立っていたカナデが、声を上げる。もうE組まで確認したの? まだB組の名前を凝視していたわたしは、焦って名簿を追っていく。C、D、E……カナデの言う通り、日菜子と若葉の名前が並んでいた。そこにわたしの名前は、ない。二人と離れてしまったことで、胸の奥がきゅっと痛む。F、G……普通科最後のクラスを見たとき、わたしの名前を発見した。G組。そして、わたしの名前から少し離れたその下に、いた。
「っ……か、カナデ! うわー! お、お……同じクラスだ! やっ……やったああ!」
勢い余って両手を広げ、隣のカナデに抱き着いた。その拍子に、周りの視線がわたしに集まっているのを感じたけれど、そんなものは気にしていられない。わたしから、こんなに大きな声が出るなんて。さっき抱き合っていた女の子たちの気持ちが、今ならとてもよくわかる気がした。
「ちょっと、ミナ……! 分かったから! 邪魔になるからいったん引くよ」
カナデは抱き着いたままのわたしに驚きつつ、人混みから抜け出した。未だに興奮は冷めなくて、心臓はどくどくと大きく脈を打っている。自分でも分かるほど顔は熱く、目が潤んでいた。カナデと同じクラス! 今にも死んでしまいそうなほどに、うれしかった。
「ミナ、喜びすぎでしょ。そんなに……泣くほど嬉しかったんだ? 新町先生にしつこく言ったかいがあったね」
抱き着いて鼻をすするわたしに呆れながら、カナデの手が軽く背中を叩いている。そういうカナデも口元が綻んでいて、喜んでくれているのが伝わってきた。
「おーっす、松波奏と美奈氏じゃーん。朝から何してんの? 熱愛なの? っていうか、美奈氏泣いてんの? おい、松波奏……美奈氏のこと泣かせたの?」
軽い声が近付いてきて顔を上げると、若葉と日菜子が立っていた。泣かせてないからとカナデが笑い、わたしも慌てて身を離す。
「美奈ちゃんと奏ちゃんは、G組かあ。……同じクラスになれて、良かったね」
日菜子がいつもの優しい笑顔で、わたしを見た。その笑顔の向こう側には、きっと色々な思いが込められている。わたしを応援してくれている日菜子に、素直に頷く。
「これは賑やかになりそうだねん。うちらはE組だから、喧嘩したらおいでよ」
縁起でもないことを言って笑っている若葉にひやひやしつつ、四人で校舎に入っていく。下駄箱の場所が変わって、わたしのすぐ近くにカナデの靴が入っている。ただそれだけなのに、胸がじんわりと温かくなった。
「……じゃあうちらはここで。美奈氏、うまくやれよー」
「二人とも、またね~」
若葉と日菜子は手を振って、E組の教室に入っていく。カナデと二人廊下に取り残されて、わたしたちも新しい教室を目指して歩き出す。まだ心臓がどきどきしていて、カナデの手を取って、夢じゃないよねって確かめたかった。けど、ここは学校だから……。周囲の目もあるし、そんなことはしない。ただ、隣にカナデがいてくれる――それだけで、充分だった。
カナデが先頭に立って、教室の扉を開ける。浮足立った新しいクラスの喧騒が一瞬止み、教室の空気が、凍りついたように感じた。誰かの話し声が途切れ、視線だけが、音もなくこちらに突き刺さってくる。わたしは思わず、カナデの背中に一歩身を隠した。ただそれは本当に一瞬の出来事で、すぐに教室は元通りになる。黒板に貼られた座席表を見て、カナデは嫌そうに顔をしかめた。教壇のすぐ横がカナデの席で、わたしの席は窓際の後方だった。
「うわあ……一番前……ミナ、席交換しない?」
困ったように頬を掻くカナデは早速席について、椅子にもたれかかっている。……さっきから、クラスメイトにちらちらと見られている気がするのは、気のせいだろうか。それは、単なる興味の視線なのかは、分からない。ただ耳をそばだてると、「あれが、松波……」「不良の……」「友達いたんだ……」なんて声が背中に突き刺さってくる。わたしは視線を気にしながら、カナデの席交換の提案を断った。
当たり前のように隣にいたから忘れていたけれど……そうだ。カナデは有名人だった。首席で入学して、トランペットはプロ級。でも授業はサボりがちで、部活にも入らず、誰とも群れない。だから――“不良の松波”なんて呼ばれていた。そんなカナデの隣にいるわたしも、きっと好奇の目で見られているんだろう。少しだけ身を縮めたその瞬間、カナデが眉をひそめて呟いた。
「ミナ……ごめん」
その言葉に、わたしの胸が無性に締めつけられた。カナデが、こんな風に顔を曇らせるなんて――。せっかく同じクラスになれたのに、わたしが怯えてどうするの。カナデに、謝らせてどうするの――
わたしはぐっと、唾を飲み込む。首を振って、勢いよくカナデの机に両手を付いた。机が大きく音を立て、指先から痺れが伝わって来る。カナデははっと息を呑み、驚いたように目を見開いた。
「全然大丈夫だから、そんなこと言わないで……! わたしは平気。わたし、何があってもカナデと一緒にいるから。カナデさえいてくれたら、それでいいんだから……!」
わたしの大声に、クラスの喧騒が一瞬静まり返ったのが分かった。わたしは、ちらりと顔を上げて教室を一瞥した。誰の目も怖くなんてない。――カナデの隣にいるって、そういうことだ。もうわたしは、逃げたりしない。カナデのことを、何も知らないくせに――勝手なこと言わないで。カナデがどんな人か、わたしが一番知っている。わたしだけが、知っている。それが、わたしの小さな誇りだった。カナデを信じるわたしを、誰にも揺らがせたりなんてさせない。
カナデは目を丸くしたまま、しばらく言葉を失っていた。それから――ふっと表情がほころんで、笑い声がこぼれる。
「ミナったら……なにそれ。ありがと」
カナデは照れ隠しのように、笑っていた。だけど、どこか嬉しさが滲んでいるみたいで――その明るい声は教室に響いて、また周囲の視線を集めていた。だけど、わたしは気付かないふりをした。ずっと、そうしていればいい。
前方の扉が開いて、もうすっかり見慣れてしまった新町先生が入ってくる。新町先生はわたしとカナデに気付くなり、少しだけ真剣な表情をして呟いた。
「……松波さん。約束通り、今年こそ、ちゃんと学校に来てくださいね。春日さん、松波さんのこと……頼みましたよ」
わたしは頷き、カナデの横顔を盗み見た。きっと同じ想いでいることが、その表情から伝わってきた。新しいクラス、新しい春。たくさんの視線の中で、わたしのすぐ隣にはカナデがいる。この場所を、これから二人で居場所にしていく。不安もあるけれど、今はそれよりも――嬉しい。幸せ。ちょっとだけ誇らしい。好奇の視線が交錯する教室の中で、わたしはただ、隣にいるカナデの横顔を見つめた。大丈夫。誰に何を言われたって、わたしはカナデの味方でいる。それだけで、世界なんて、少しも怖くなかった。