第二十三話 名前を並べて(1)
「今日で一年生最後とか、実感湧かないわー。まー、結構楽しかったよねえ」
昼休みの地学準備室で、若葉がテーブルに肘をついて笑っていた。いつもなら、ここはカナデと二人きりで過ごす静かな場所。だけど今日は、わたしの提案で若葉と日菜子も呼んでいた。若葉と日菜子と過ごす時間は、もう最後になるかもしれない――そう思ったら、どこか名残惜しくて、少しだけ胸が締め付けられた。
「そういえばさ、松波奏は無事に進級できるわけ? なんか美奈氏から、留年の危機って聞いてたけど」
「えっ。ミナ、そんなこと言ってたの? おかげさまで、ギリギリ進級できそうだよ」
困ったように息を吐くカナデに、若葉が「良かったねん」と軽く笑いかける。その横で、日菜子がふんわりと微笑んだ。この二人とカナデが、こんなふうに自然に会話をして、笑い合っているのが不思議だった。半年前までなら、きっと考えられなかった光景だ。
――わたしの世界が、確かに変わったんだ。
「二年生になってもさ、こうやって……仲良くできると嬉しいな。私が蒼ちゃんのこと相談できるの、若葉ちゃんと美奈ちゃんと……松波さんくらいしかいないから」
日菜子が柔らかな声で言いながら、わたしたちを順に見渡した。その視線を受けて、若葉がちょっと意地悪く口角を上げる。
「でも美奈氏はさ、結構クールなとこあるから。クラス変わったら、私たちのこと忘れちゃうんじゃないの?」
その冗談まじりのひと言に、心臓がひとつ跳ねた。若葉は何気なく言っただけなのだろう。だけど、それは図星だったのかもしれない。――昔のわたしだったら、本当にそうだったかも。人と深く関わるのが怖くて、どこかでいつも一歩を引いていた。けれど……きっと今は違う。この二人の笑顔が、こんなにも温かく感じるのは、全部カナデのおかげだ。カナデがいてくれたから、わたしは人の優しさに気づくことができた。
「そんなことないから……! わたしこそ、これからも仲良くしてくれると……嬉しい」
途中で恥ずかしくなって、語尾がしぼんでしまう。わたしの呟きに、若葉も日菜子も優しい眼差しを向けてくれていた。
「四人で同じクラスになったらいいよねー。松波奏とも、同じクラスになってみたいわ」
あっけらかんと笑う若葉に、頷く。そんなに都合よくいくわけないって、分かってるけど――それでも、こんな時間が続いたらいいなと思ってしまう自分がいた。
そのとき、地学準備室の扉がノックされ、新町先生が顔を覗かせた。先生は、いつもより賑やかな部屋に少し驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつもの真顔に戻る。
「……松波さん、今日は賑やかなんですね」
「はい。今日で一年生も最後なので……春日さんの友達も、一緒に」
「おいおい、松波奏! 確かに私らは美奈氏の友達だが……違うだろ! もう松波奏の友達でもあるだろう?」
椅子を蹴って立ち上がった若葉の勢いに、思わずカナデも目を丸くする。その横で、日菜子が静かに頷いた。
「……ははっ、そうだね。もう友達だ。私の友達の、若葉と日菜子か」
――その瞬間、確かに胸の奥がちくりと痛んだ。カナデが二人の名前を、呼び捨てにした。わたしだけじゃなく、日菜子も、若葉も。あたりまえのように。カナデにとっては、きっと深い意味はない。それがなんだか、悔しいような、寂しいような……。名前を呼ばれたのは、わたしじゃない。その事実が、胸の奥に微かな刺のように残っている。そもそも、以前からほのかのこともそう呼んでいたし、気にすることじゃない――そう分かっているのに、小さな独占欲が顔を出す。
「松波さん……! じゃ、ない……ええと、奏ちゃん」
日菜子が口元を隠し、泣きそうな顔をして名前を呼んだ。カナデはちゃん付けで呼ばれるの、あまり好きじゃないみたいだけど――優しい顔をして、日菜子を見ていた。その笑顔はわたしに向けられたわけではないのに、胸がきゅんとなる。
「私は松波奏のままいくとするよ! なんか言いやすいんだよな、松波奏」
歯を見せて笑った若葉に、カナデは「勝手にして」と苦笑する。三人が和やかにやりとりする様子を、わたしはカナデの横に座りながら見つめていた。嬉しい――そのはずなのに、なぜだろう。胸の奥に、静かな熱がじんわりと広がっていく。
「……私にこんなに友達ができたのは、ミナのおかげだよ。ありがとね」
その言葉と同時に、カナデの掌がいつものように、わたしの頭にそっと触れた。友達の前だというのに、ためらいもなく。
――こういうスキンシップに、どこか期待してしまう自分がいる。友達が増えたって、カナデにとってわたしは、ちゃんと特別なんだって。……信じてもいいのかな。何も言えずに、ただカナデの黒い瞳を見つめる。声にならない問いが、胸の奥にそっと沈んでいった