呪い
スマホの音量を上げる。音は何も聞こえてこない。変わらず何も見えない暗闇が画面に映され続けている。本当に再生されているのか気になり、画面をタップすると動画の下に出る赤いバーが進んでいて、動画は間違いなく再生されていることがわかった。
5分ほどの動画だった。じっと固唾をのんで画面を注視する。
(仮にもし、白無垢の女が現れたとして。どうやって行方不明なんかになるのか……)
あり得ないモノを見たショックで寝込んでしまうのか、白無垢の女にどこかへ連れて行かれるのか、美月は考えられる可能性を頭の中で巡らせた。
動画はまだ暗闇を映し続ける。
(というか、普通に悪戯の可能性だってあるよね。噂を知っていれば、暗いところにいって白無垢を着た人を映せばそれっぽく見えるわけだし)
だが、美月がもう一つ気になっていたのはこの投稿に誰も反応をしていなかったことだ。フェイク映像だとすれば、誰かが「イタズラだ」などとコメントしていてもいいはずなのだが、投稿には一件もコメントがなかっただけではなく投稿を評価するいくつかのボタンも全く押されていなかった。
(ホンモノ? ニセモノ? わからない……あっ……)
急に動画を見ていると気持ち悪くなるような激しいノイズが起こった。美月は片手で頭を擦る。
(何これ!? 頭が痛い!)
ノイズに合わせるようにまた耳鳴りが増幅されていく。比例するように頭痛も酷くなっていき、美月はスマホをテーブルの上に置いた。
両手で頭を強くおさえながら、動画を見続ける。ノイズが消えて暗闇の中に忽然と現れたのは、白い服を着た女だった。
動画は高い所からの映像だったのか、地面の上に立つ女は小さく見える。風が吹いているのか、地面につきそうなほどに長い髪の毛が揺れている。白無垢を着ているのならば、髪はまとめて深い帽子か白い布のようなもので隠していると思っていたが、女の髪は帽子からはみ出して無造作に伸びていた。
女が歩く。ノイズが揺れるが、その歩き方は異様だった。真っ直ぐに歩くことはできずに一歩一歩動く度に風に揺れる細枝のように左や右に身体が大きく傾いていた。
「白無垢の女」。動画では小さくて容姿は見づらいが、やはりそう形容して間違いないと美月は思った。何の光もない暗い空間でぼうっと浮かび上がるように歩く姿は不気味だが、どこか妖しく美しくも見えた。白無垢は和式の結婚式で花嫁が着る衣装。それにあの短歌が美しさを連想させるのかもしれない。
「白無垢の女」は画面の中央辺りに移動すると、どこか虚空に向かって顔を上げた。その顔を食い入るように見つめていた美月は、思わず口に手を当てる。
顔も暗くて白無垢独特の白帽子を被っている以外は、表情は何もわからない。しかし、顔の辺りには何か無数の蠢くものがあった。
(虫だ……えっ? 本当に?)
光に照らされなければ正体は判別できない。ただ、波打つように動く様は脚のない毛虫や蚯蚓、あるいは蛆が蠢いているようにしか見えなかった。
激しいノイズが走り、画面が揺れる。ノイズが止まると女の姿はどこにもなく、また暗闇だけが続いて動画は終わった。
美月の視線が弁当箱へ移った。突然、椅子から立ち上がると、美月は口をおさえたままトイレへと駆け込み、そして吐いた。
吐き出すと頭痛も耳鳴りも収まり、気持ちが楽になる。
(今見たのは何? ホンモノなの?)
トイレの外から通知音が鳴る。メッセージアプリの通知音だった。美月は荒い息をしながら立ち上がると、水を流してリビングへと戻る。
通知をタップするとアプリが開き、トーク画面へと移動する。如月乃愛の名前とともに送られてきたメッセージは──。
〈みーちゃん! あのお呪いやっちゃったんだけど、何か、何か変なの!〉
スマホが手から滑り落ち、床へと転がる。
「そんな! 乃愛!」
「白無垢の恋唄」を試した? なんで、どうして?
スマホを拾い上げようとした美月の脳裏に昨日の乃愛との会話が思い出される。
『乃愛だって、あれでしょ? 誰か気になる人がいるからこの呪い知ったんじゃないの?』
『……違うもん』
『東條先輩?』
『う……』
『なななんで! みーちゃんが先輩の名前知ってるの!?』
『それは、兄さんといつも一緒にいるから。そう言えば、最近兄さんと話すとき、乃愛がぎこちなくしてたなぁ、と思って。……好きなんだ?』
『でもっ! 私はこの呪い使わないよっ! だって、なんかズルいもん』
「ああ言ってたのになんで!?」
スマホを拾うと、素早く指先を動かして文字を打つ。呪いが本当だとしたら、乃愛の身が危ない。
〈乃愛、なんで呪いなんか?〉
〈とりあえず、今どこにいるの?〉
〈合流して、何があったか話そう〉
即座に既読がつくと通話がかかってくる。
「乃愛!」
「みーちゃん助けて! 知らなかったの! 化物のことなんて!! 怖い! 誰かにずっと見られてる気がする! みーちゃん、私、どうしたらいいの!?」
「待って! 落ち着いて、今そっちに行くから!」
美月は食べ切れなかった弁当箱をそのままにして外へと飛び出していった。どのくらい眠っていたのかもう日が傾いてきており、もうすぐ世界が黒く染まる時間帯になってしまう。
電話先からは今にも泣き出しそうな声が聞こえてきた。
「乃愛! 今、どこにいるの!?」
「今、家。でも、誰もいなくて、私──」
「じゃあ、近いよ! 私も家にいたとこだから、合流しよう! 乃愛! 私の家まで来て! 私も向かうから途中で会えると思う!」
「うんっ……今、そっちに行く」
幼馴染の美月と乃愛は元々同じ校区内だ。走れば10分も足らずに合流できるはず。
乃愛も外へ出て走っているのだろう。息遣いがだんだん荒くなる。それと混じって堪えたような泣き声も聞こえてくるが。
「……みーちゃん、私、どうしても……」
「うん」
「先輩がさ、東條先輩が他の女の子と二人きりで歩いてるの見ちゃって……」
「……うん」
「どうしてもっ! 私、どうしても! 先輩に見てほしくて、ダメだって思ってたのに……」
「お呪い試しちゃったってこと?」
「うん……」
「……そっか」
美月には理解できなかった。なんでそんなことをしようとするのか。望んだって、焦がれたって振り向いてくれない人はいる。
(どんなに手を伸ばしても、たとえ叫んだって視線に入ることさえ許されないことだってあるんだから)
電話先の乃愛に気づかれないように自嘲気味に笑う。──いつか別れるかもしれない、いなくなってしまうかもしれない相手の心を呪いまで使って振り向かせようとするなんて無駄だよ。
(……でも、とにかく今は乃愛を助けないと……!)
「乃愛! 今どこらへん?」
「今っ、曲がり角曲がればみーちゃんの家まで一直線のとこ──いたっ! みーちゃん!」
交差点の車道を挟んで遠くで手を振る乃愛の姿があった。学校に用事でもあったのか制服姿のままだ。美月も手を上げて名前を呼ぼうとした。
「乃愛っ! えっ……?」
美月には乃愛の姿が二重に見えていた。写真を撮ったときにブレてしまったときのように、横断歩道の前で跳ねる乃愛の身体が歪んで見える。
(乃愛……?)
「どうしたの、みーちゃん……だぁぃじょうぶ?」
「ひっ!?」
思わず声を上げてしまった。スマホを耳から離す。途中までは乃愛だったはずの声が、くぐもった低い声に変わった。
(なにこれ…………)
信号が青になり、乃愛の足音が近づき美月の横に並んだ。躊躇いがちに見上げた顔は、乃愛のそのままの顔だった。
「み、みーちゃん……大丈夫?」
「あぁ、大丈夫。それより、早くウチに行こう! 話はそのあと聞くから」
美月は乃愛に気持ちを悟られないように、苦笑いを浮かべた。
家に入ったものの、乃愛の様子は奇妙だった。ソファに座っていても常に周りを気にしているかのように横を向いたり、後ろを振り返ったりしていてまるで落ち着きがない。家に着くなり、2階も含めて全部のカーテンを閉めて全ての部屋の明かりを灯したと思ったら、クッションを抱きかかえて周りを確認する以外は震えていた。
美月はその様子を注意深く窺いながらもお湯を沸かし、2つのマグカップにそれぞれコーヒーの粉とティーパックとを入れていた。
お湯が沸騰する。火を止める際に自分の手も震えていることに気がついてそっともう片方の手を添えた。
わからない。だけど、異常な、異質なことが起きているのは間違いない。SNSで見ていただけの世界が、噂に過ぎなかったはずの呪いが、今現実に起こっている奇妙な感覚に美月は鳥肌が立っていた。
「……乃愛……?」
ソファの前に置かれた木製の小さなテーブルにカップを置いていく。乃愛が紅茶で美月がコーヒーだ。テーブルの上には画面を伏せたままの乃愛のスマホが置かれていた。
「よかったら、飲んで。少しは気が楽になるかもしれない」
と言っても、飲めそうにもないことは正面から乃愛の表情を見ればすぐにわかった。視点は話している美月の方にはなく、見るからに恐怖に怯え忙しなく動き回っている。
(こんな様子の乃愛、初めてだ。本当に、本当にあの呪いはホンモノっていうこと?)
美月は熱いコーヒーを啜った。でも、まだそうと決まったわけではない。噂を知った乃愛が信じ込んでしまってありもしないことに怯えているだけの可能性だってある。と、美月は唇をなめると乃愛に質問することにした。
「乃愛。こっち向いて、乃愛!」
強く呼びかけたことでようやく乃愛の目が美月の方へ向いた。
「みーちゃん……ごめん、ごめんなさい。私、わた、し……」
クッションを掴んで泣き出してしまう。美月はすぐに乃愛の横に座ると肩を抱きながら背中を撫でた。いつかの過去に同じようにこうして慰めていたことを思い出しながら。
(だけど、今は状況が違う。どうしても早く乃愛から話を聞かないといけない。ただの気のせいならそれでいい。だけど万が一、本当に万が一ありえないことが現実に起こったのだとしたら、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない)
「乃愛、ゆっくりでいいから、何が起こっているのか話して」
「……う……うん──」
鼻を啜りながら肩を揺らしながら、乃愛は話し始めた。時系列も何もかもが纏まりがない。美月は話を理解するために相槌を打ったり、時に端的に質問を挟んだりしながら乃愛に起こったことを想像する。気になったのは、話の最中、何度も何度も「怖い」と言っていることだった。
一通り話し終えたあと、乃愛は疲れ切ったのか落ち着いたのかクッションを抱いたままソファに横になって眠ってしまった。
わかったのは、美月と乃愛の先輩、三月の兄の友人である東條に対して呪いを実行したあと、すぐに東條から連絡があったということ、そしてその後から急に誰かにずっと見られているような感覚が続いているということだった。乃愛がしきりに「怖い、怖い」と呟いていたのは、その視線のことで、気になってSNSで検索したときに「白無垢の女」について知り、視線はその化物ではないかと思ったようだった。
(周りを異常に気にするのは視線のせいで、明かりをつけるのも「白無垢の女」が暗闇に現れるのを知ったから。でも、化物の姿そのものを見たわけではない)
これじゃあ、本当のところはまだ何もわからない。気のせいと言ってしまえば気のせいになるし。
美月は、乃愛の寝顔を眺めながら冷めてしまったコーヒーに口をつけた。夢でも見ているのだろうか。東條先輩との夢でも見ていたらいいが。
「とりあえず、様子を見るしかないよね」
美月は自分のスマホでSNSを開いた。相変わらず「白無垢の恋唄」や「白無垢の女」についての投稿は増え続けている。美月はSNSを閉じるとメッセージアプリを開き、兄、弓弦のトーク画面を開いた。
〈兄さん、知ってる? 「白無垢の恋唄」
兄さんがいない間にこっちでは大変なこと
が起こってるんだよ
兄さん、いつ〉
──帰ってくるの、と送ろうとして美月は打ち込んでいた文字を全部消去した。