白無垢の女
古塚弓弦は、何も見えはしない暗闇の中に再び入れられた。もう何度目か、朝昼夜の3食の食事以外は外に出ることが許されず、顔を洗うことも風呂に入ることもできずに何日も過ごしている。
当初は当然反発心も持っていたが、自身の髪の毛や体から漂う臭い、祠と呼ばれる狭い部屋から漂うカビ臭さにも慣れた頃にはもう考える気力を失っていた。
肉や魚が入っていない味気のない料理を毎食食べ、毎日同じ黒袴を着て、毎日暗闇で過ごす。眠っては起きて、起きてはまた眠り、同じことを繰り返すだけの時間が過ぎるなかで、気がつけばというよりも気がつかないままに時間の感覚も失われていた。
ただただ長い暗闇の中を過ごしている。今、目を開けているのか閉じているのかさえ弓弦は判別がつかなくなっていた。
抵抗していた最初の頃は、「成人の儀」とは何か、なぜ結婚式で着るような黒い袴を着なければいけないのか、その目的と手段について何度も何度も祖父や祖母、そして母親に問いただした。ところが、返ってくるのは無言の訴えだった。
一度激昂して小さなちゃぶ台を両手で思い切り叩いたことがある。お椀や皿が木の床へと落ちて汚れる。それでも3人とも怒るなんてことはなく、まるで感情が無くなったかのように無表情で弓弦を6つの瞳がただただ見つめていた。母親がたまにする「遠い目」だった。
弓弦はその目に見つめられて心が冷たくなっていくのを感じていた。何も言葉は浮かばなかった。正確に言えば、口から声を発することさえ怖かった。何も言えないでいると、祖母は急に立ち上がった。落ちた食器を片付け床を丁寧に拭くと、また同じ料理を弓弦の目の前に置く。そして、じっと見つめるのだ。弓弦が仕方なく箸を取り、食べ始めてようやく視線は外された。砂のような味の料理を無理くり胃袋に流し込んだことを覚えている。
異常だと感じた。異常だと思っていた。
祖父も祖母も今まで一度だってそんな目を弓弦に向けることなどなかった。滅多に会うことはなかったものの、母親に連れられて会いに行けばいつでも笑顔で歓迎してくれる、そんな2人だった。
幼い頃弓弦は、ショッピングセンターやゲームセンター、映画館も公園も何もない代わりに、よく祖父に森や川へ連れ出してもらった記憶がある。手を引かれての散歩や虫取り、川遊びなどどれも家族や友達とは体験できない遊びで、夢中になって遊んでいた。いつも麦藁帽子を被っていた祖父は割合おしゃべりで、額に噴き出す汗を拭いながら、いつも隣にいて虫の説明や川魚の話などを面白おかしく聞かせてくれた。
祖母は大人しい人だった。祖父と弓弦が遊んでいるのを遠くからニコニコと微笑みながら見守っている。そんな記憶がある。昔ながらに家事は全て祖母の仕事で、いつもエプロン姿だった。季節に合わせた料理を作り、家では食べられないような繊細な味のご飯を振る舞ってくれた。弓弦が美味しそうに食べるのを見て手で口は隠していたが、本当に嬉しそうに笑っていた。
そんな2人が変貌していた。おしゃべりだった祖父は必要なこと以外一言も口を利かず、あんなにおいしい料理を作っていた祖母のご飯は味気のないものに成り下がっていた。
そして、あの目だ──。
暗闇の部屋は今日も動かない。以前弓弦が聞いた母親の話によると、300年前から修繕、修理、今で言うリフォームをしながら続いているらしい屋敷は少し強い風でも吹けば揺れるような脆い屋根と壁だった。しかし、地下に石壁を積んで造られたこの部屋だけは全く揺れることがない。
だから今日も、外からの音は聴こえなかった。
古塚家がこの地において、代々村役を務めていた由緒正しい家筋であることは、母親から何度か聞かされていた。そうは言っても特別何か思ったこともなく、この旧家に来たところで今にも崩れそうなボロボロの家だと感じただけに過ぎない。
旧家の周辺は昔はそれなりに人もいたのであろうが、どこも掘っ立て小屋のような寂れた空き家しかなく、村に現存している家屋は10軒ほどしかなかった。しかもその内の1軒であるこの屋敷は、広さこそ誇れるかもしれないがポツンと離れた丘の上に淋しく建てられている。
暗闇の中から聴こえてくるのは、自分の息遣いと動く度に擦れる服の音くらいだった。弓弦は、もうくたびれてしまったようにだらりと両腕を冷たい木の板の上に投げ出し、背中を石壁に預けていた。まるで暗闇に吸い込まれるように。
明らかに異常だった。だが、異常を知らせるにも近くに家があるわけではないし、信用できる人たちなのかすら弓弦には判断できなかった。友達に連絡したところで理解はしてくれまい。唯一頼れるのは、家で帰りを待っている妹──美月だけだった。
(……み……つき……み、つき……みつき……)
「……美月」
目から涙が溢れてくる。自分とは違って気の強い真っ直ぐな瞳が暗闇の中に浮かんできた。止まったはずの思考が動き出せば、救いを求める心とは裏腹に絶望色が押し寄せる。どこまでも、どこまでも深い暗闇が弓弦の心を支配していた。
屋敷に着いてすぐにスマホは奪われて、外界とは全く連絡が取れなくなってしまった。母親からの接し方は真逆だったが、同じ境遇で育った美月ならすぐにわかってくれる。弓弦は、そう信じていた。この家は異常だ。古塚家は異常だった。美月ならそのことをすぐに理解できる。肌で感じ、共に生きてきた美月なら。
「うぁあ……うぅあ……うわぁああ……」
力のない赤子のような声が出た。涎がベタベタと口の周りに付く。
常闇に押し潰されそうになる心を支えていたのは、妹という一筋の光だった。
目、目、目、目、目、目、目、目、目目目目目目目目目目目目目──。
得体の知れない目が見つめていた。暗闇の中にはひしめく星の光の代わりに複数の目が凝視している。このまま朽ちていくそのときを、暗闇に呑み込まれて消えていくそのときを見定めるように。
刺すような目に動悸が上がる。頭を抱えたまま、視線から逃れるように横たわった。春先のはずなのに真冬のように冷たい板に体を押し付けていると震えが止まらなくなる。最初は手、次に腕、それから徐々に下半身へと震えは広がり、全身が冷水に浸かっているように寒かった。
一度戻った意識はここはどこなんだ、と問う。自分は何でここにいるのか、と問う。ぐるぐると廻る思考はやがて暗闇に溶けていき、カラフルな色彩をぐちゃぐちゃに黒の絵の具で塗り潰されたように支離滅裂になっていく。
目、目、目、目。音、音、音、音。闇、闇、闇、闇──。
呼吸が荒くなる、息が乱れ、頭が朦朧としていく。
弓弦の目に映っていたのは、美月の瞳だった。意志の宿る目。真っ直ぐに自分を見る目。おかえり、と告げた美月は誕生日だからと告げてリビングから見えるオープンキッチンへ戻っていった。机に座ると、桶に入れられた酢飯からつん、と酸っぱい匂いが漂ってくる。美月は、いつもの手慣れた手付きで小気味よい音を立てて刺身を切っていた。
「弓弦」
自分を呼ぶ声がして振り返れば、いつの間にか母親が向かいの席に座っていた。体が緊張で強張る。
「誕生日おめでとう。弓弦、明日から田舎へ帰りましょう」
包丁の音が止まった。美月の方を見れば眉間にシワを寄せて怒っているかのような戸惑っているかのような微妙な表情を浮かべていた。
「弓弦」
肩が上がる。また振り向けば、自分ではなくどこか違うところを見ている瞳と目が合った。
「弓弦」
冷厳な声が迫る。冷や汗で背中が濡れて全身の筋肉が縮こまるのが自分でもわかる。逆らえない声、逆らってはいけない目だ。
もう一度美月へ視線を送る。その目が見開いた。
美月だったはずの存在がいつの間にか母親に置きかわり、包丁を自身の首に突きつけていた。母親は宙を見るような目で、そのまま自身の首を──。
ポタ、ポタ、と何かが垂れてくる音で弓弦の意識が強制的に覚醒した。落ちていた床から体を起こすと、ピタリと背中を壁につけて音の在り処を窺う。
奇妙な音はいつも暗闇の中でしばらく過ごすと聞こえてきた。蝋燭の灯りを伴った祖父が階段を降りる音が聞こえるまでずっと、音は聞こえ続ける。
音が聞こえると、緊張が走る。あの目と酷似しているがまた違う異質の雰囲気が部屋の中に充満していく。弓弦は両手で耳を塞いだ。
音は、単調だった。リズムは等間隔ではなく不定形でずっと聴いていると人間の脈かあるいは心臓の音のように思えてくる。耳を塞いだところで音が減衰するわけではなく、自身の外から聞こえているはずなのに体の内から聞こえているような錯覚を覚える。
弓弦は掻き毟りたい衝動に駆られた。耳を千切り落とせばあるいは音は聞こえなくなるかもしれない。
(嫌だ……嫌だ……嫌だ……)
全身の震えは止まらず、息も乱れたまま。次に起こることに備えて身体が悲鳴を上げている。
音はもう一つあった。何かが擦れるような音、いや、弓弦はもう肌で理解していた。何かが擦れているのではない、誰かが擦っているのだ。その音が聞こえ始めると、空気が一変する。
音が聞こえる。弓弦は息を止めた。耳をさらに強く、痛くなるほどに押さえる。自分の内側から聞こえてくる鼓動が高鳴る。
キーン、と頭痛がするほどの耳鳴りがした。自分以外誰もいないはずの真暗闇の中に、何かの気配が現れた。
その何かは、ひたすらに書いている。擦れているのは、おそらく弓弦が座っている木の板のはずで。その音が現れるのは、何かが垂れた直後。這い回る蟲のように猛烈な勢いで木の板が擦れる音がして、ふっと音が消える。またしばらくして垂れた音の後に蟲の音が現れる。この繰り返しだ。
単純な音の繰り返し、同じ行為の繰り返しとわかっていても弓弦の身震いが止まることはなかった。音を生じているものは自然現象ではない。得体の知れない何かだ。暗闇の中、姿は見えずともそれは確かにそこにいる。見えないはずなのに、確かに気配が、呼吸が自分の目の前にあり、針に刺された標本の蟲のように文字通り冷たい壁に釘付けにされて動けなかった。
自分の呼吸の音も気になり、弓弦は慎重に言うことを聞かずに小刻みに揺れ続ける手を動かすと口と鼻を覆った。生唾が喉の奥に溜まっていく。飲み込むことすらもできなかった。
それは、おそらくすぐ側にいる存在に気付いていない。ひたすらに、ただひたすらに同じ行為を繰り返しているだけ。階段から祖父の足音が聞こえてくれば、何事もなかったかのように音はすべて消え去り、弓弦の口から長い息が漏れる。
弓弦はその長い暗闇の時間を音を出さずに過ごすしかなかった。冷水を浴びたような寒さに身を凍えさせながら。
それは何なのかと弓弦は考える。成人の儀、「遠い目」、黒袴、何かが垂れる音に何かを書く音。頭を巡らせれば巡らせるほど、絡まった糸のように考えがまとまらなくなっていく。
感じるのは変わらず、自分の置かれた状況がただ異常だということだけだった。
弓弦は恐る恐る頭をもたげた。口にやっていた手を耳朶を塞ぐようにもう一度移動させる。
音が、消えていた。辺りは寂然としておりずっと聞こえていた耳鳴りもしない。酷い寒さも止まらない震えもなくなり、元の暗闇が返ってきたようだった。
じいちゃんが迎えに来たのか──と弓弦は願ったが、それにしても来るのが早すぎる気がしていた。
耳から手を離す。見えない壁に視線を這わせ、大きく開いた充血した瞳を忙しく動かして異変がないかを探した。
ない。何もない。暗闇だけ、ここにあるのはいつもの暗闇だけ。
弓弦はひっそりと息を吐き出すと、だらしなく口を開けてその場で横たわった。緊張の糸が途絶えたのか、急激に瞼が重くなる。
このまま眠ってしまおうと思った。寝ればきっと、緊張も恐れもなく祖父が迎えに来る時間になる。
もしかしたらずっと悪夢を見ていただけなのかもしれない。次に目を開けたときにはベッドにいて、気持ちのいい朝を迎えているはずだ。部屋を出ると、美味しそうなウインナーや目玉焼きの匂いがして、きっと、そう美月がいつものように仏頂面で挨拶をしてくれるはずだ。そうして、安堵する。夢だったんだと、異常なことは何もなかったんだ。そうだ、そうに違いない。
弓弦の瞼が落ち、口から寝息が聞こえる。
「……………………た」
目を見開いた。反射的に動こうとした身体が全く動かない。
「ようやく…………た」
吐息が右耳の中に入ってくる。枯れ木のように乾いた手が頭の上に置かれた。
声を出したいのにも関わらず、声を出すことができない。開いたままの目の中に涙が溜まっていく。
視界の中をポタポタと赤いものが上から下に落下する。血だ。髪の毛をべたりと触る指から血が滴り落ちていた。
長い髪の毛が視界の全てを覆った。飛び出しそうな目玉が1つ、弓弦の瞳を見つめていた。
「ようやく、見つけた」
その女は身を翻すと壊れた人形のように首だけを上下に動かすと何度も手を叩いた。暗闇の中でもはっきりとわかる白無垢の女だった。