拡散
赤い鮮血が垂れる。首を伝い、至極緩慢に重力に従い落ちていく。目が離せなかった、離すことができなかった。虚ろなどこか遠くを見ている目が、初めて認識したようにこちらを見て瞳孔が開く──。
着信音が鳴っている。「うっ」、と声を出しながら怠そうに目を開くと体を起こした。
(寝ちゃってた……制服のままなのに……)
美月は乱れた髪の毛を軽く整えながら、スマホのありかを探す。唸るように鳴り続けるスマホは、いつの間にかベッドの下へと落ちていた。
(いくらなんでも、なんでこんなところに……)
振動が自分以外誰もいない家の中に響く。美月はカーペットの上に伏せると右腕だけを伸ばしてスマホを取ろうとした。
(ずっと鳴ってる……もしかして)
「……兄さん?」
寝ぼけたままだった細い目が開くと、美月は急いでスマホをつかんで起き上がった。
「違う……誰?」
知らない番号だった。以前、誰かから聞いたのか顔も知らない男子生徒から電話が掛かってきたことがあり、それ以来美月は見覚えのない着信番号には出ないことにしていた。
「でも……もしかすると……」
(兄さんに何かあって、その電話なのかもしれない)
幾度か逡巡したあと、美月は意を決して電話に出た。
「……はい」
「古塚さん? ちょっと急で連絡事項があって」
「えっと……」
「ああ、ごめん、ごめん。弓道部の二俣です」
「あっ、すみません……」
電話先の相手が二俣だと知って、張り詰めた心が緩む。胸の前で握り締められていた拳が解かれ、無意識のうちに美月は姿勢を正すと前髪を直した。
「いや、いいんだ。それよりさっきの話なんだけど」
(さっきの、と言うといなくなった加護先輩の件)
寝る前に抱いていた悶々とした気持ちを思い出す。進展はあったのか、それともやはり美月の勘違いだったのか。
「古塚さん、『白無垢の恋唄』って知ってるかい?」
「……えっ」
二俣からその言葉が出された瞬間、背筋が凍りつき、すぐに返答することができなかった。背中が急に重くなったような気がしてベッドへと腰掛ける。
「なんかSNSで流行っているらしいんだけど、僕はこの年だしSNSやってないからよくわからないんだけど、みんなを帰らせたあと、加護さんにそのことを教えたとかで急に残ってもらった2年生の1人が泣き始めてしまって」
やはり、何かを知ってたんだ──とは思ったものの、そんなことはもう美月は気にしていなかった。問題は、『白無垢の恋唄』についてだ。
「その白無垢の恋唄っていうのは、短歌みたいなものらしくて──」
「先生。私も知ってます。昨日、友達に教えてもらって。実際に私もSNSで確認しました。それで、加護先輩とどんな関係が?」
二俣の言葉を遮ると、美月は事態を説明してもらうことを急いだ。冷や汗は止まらず、それどころか軽い耳鳴りもしてくる。美月は空いた片方の耳を手で包むように押さえる。乃愛のスマホで見つけた奇妙な映像が頭を過った。
「そうか、それなら話が早いね。その、まあ、本当かどうかは定かじゃないんだけど、この呪いを知った加護さんは試したかもしれないんだ。あの、森久保さんに」
(試した? ということは、加護先輩は森久保先輩のことを? でも……)
「ですが、それが2人がいなくなったこととどういう関係があるんですか?」
質問しながら動画の白い光を思い出す。心臓が脈打つのがわかった。キーン、と耳鳴りが大きくなり、頭が痛くなる。逸る気持ちが、美月の心に警鐘を鳴らしていた。
「それが……いいかい? 僕はそうは思わないけど、呪いをした者には不可解なことが起こるらしい。結ばれた2人の前に、何か妙な者が現れるらしいんだ。なんでも、白い服を着た、女だとか」
美月は、息を呑んだ。スマホの小さな画面で見た動画が鮮やかに蘇る。一瞬映ったと思ったのは白い光ではない。美月は乃愛からスマホを預かったあのとき、確かにその双眸で見ていたのだ。
白い服を着た髪の長い女が、暗闇の中を佇んでいるのを。
「白無垢の女!」
思わず声を発していた。白無垢姿だったのかは定かではない。けれど、そうだという自身でも理解の超えた確信があった。
「白無垢の女?」
反芻するように二俣は美月の言葉を繰り返した。
「この呪い、『白無垢の恋唄』って言うんですよね。短歌の詠み手はきっと女性だと思ったんです。それに、私昨日、SNSで『白無垢の恋唄』を検索して妙な動画を見つけて。そこに映っていたのは、暗闇の中に一人だけ佇む白い服を着た髪の長い女性だったんです」
一息で言い切ると、やや間があった。電話先だとしても、躊躇いがちに何度も口を開けては閉じる二俣の様子が目に浮かぶ。
「……古塚さん……その、言いにくいんですが、その化物を見たっていう話がSNSで上がっているらしいんです。いくつか投稿を見せてもらいました。僕はたちの悪い悪戯だと思うんですけど、ようは加護さんと森久保さんはその化物に遭遇して行方不明になったんじゃないかと言っていて……」
「それって、つまり……」
「はい、たぶん。もし、万が一、SNSで流れている噂が本当だとしたら、白無垢の恋唄の呪いを試して結ばれた2人は白無垢の、その化物に呪われて行方不明になってしまうという」
身震いがする。美月は、初めて句を読んだときの得体の知れない不気味さを思い出していた。
(あのとき感じたのは、これだったの? いや、でも、そんなこと本当に?)
「でも、先生──そんな、そんなことあると思いますか? SNSで詠み手は不明ですが、誰かの句を変えて投稿するだけで、そんなこと起こるわけ……ないですよね?」
「そうです。そんなことはあり得ません。たとえば、SNSでの誹謗中傷や暴言で時々生徒からも相談があったりします。それで傷ついたり、自ら命を断つ人もニュースで見たりしますが……でも、ただの言葉自体にそんな力があるわけないですよ」
二俣の声は美月の心を落ち着かせようとするかのように、柔らかくそして穏やかだった。
美月は自分を納得させるように何度もうなずくと、スマホを持つ手に力を込めた。
(そうだ。冷静に考えて、そんな呪いとか言霊とかそんな超常現象が起こるわけない。あのとき見た動画だってきっと噂を面白おかしくするための誰かの悪戯で。今回のことだって何かの偶然が重なっただけで)
「とにかく、余計な混乱が起きないように今、部のみんなに連絡しているところです。それと、くれぐれもこの呪いを試さないように」
「わかりました」
「それでは、失礼します」と言って電話が切れた。急に静かになった部屋の中は落ち着かず、なぜかまだ体の震えも耳鳴りも続いていた。
美月はメッセージアプリを起動する。兄からの連絡はまだない。既読すらされておらず、行方がわからない。一瞬迷ったが、画面に表示されている電話ボタンをタップし、スマホを耳に押し当てた。
機械的な呼び出し音が何度もリピートする。
(出てよ! こんなときくらい安心させてよ!)
やがて呼び出し音は切れて、通話は強制終了した。美月は、スマホをベッドの上に投げ捨てた。
「バカみたい」
か細い声で一人呟くと、美月は部屋を出て階下のリビングへと降りていく。リビングを横切りキッチンの横を通り、洗面所へと向かった。
とにかく。何よりも冷たい体を温めたかった。体を温めれば全部気のせいだったと思えるような気がした。
お風呂を沸かし始めると、制服や下着を乱雑に脱ぎ捨てて浴室のドアを開ける。お湯が溜まり切る前にシャワーを浴びて目を閉ざした。
いつもは気にしたことがない浴室内に無機質に反響する水の音が、今はとても心地よい。
(兄さん……昔はよくお風呂にも一緒に入ってたっけ……)
幼い頃の記憶が蘇る。一人でいることが怖かった美月は、風呂も一人で入ることはできず、いつも兄に手を引いてもらって風呂場まで連れてきてもらっていた。
(人一倍、怖がりだったっけ)
シャワーを止めると、手首に巻いていたゴムで長い髪の毛をくくる。
(体洗うときはずっと喋ってて、頭は一人じゃ洗えなかったんだ)
湯船に浸かる。冷たくなっていた身体が足先から徐々に温かくなっていくのを感じる。
(兄さんは、文句言いながらも毎日ちゃんと頭を洗ってくれた)
ゆっくりと目を瞑り、浮かぶのは過去の兄の笑顔。
(それだけじゃない。家にいるときは基本、いつも一緒にいてくれて。一緒に遊んでくれて)
だからこそ、と美月は思う。だからこそ、たとえ母親が傍にいなくても、母親と自分だけが疎遠だったとしてもそこまで深い孤独を感じることはなかったのだろうと。
「兄さん」
(……あれ? 私──)
なぜか涙が溢れてきていた。身体は暖かいはずなのに小刻みに震えていた。口を両手で押さえると美月は、堪えきれずに声を漏らした。
(……怖い……怖いのか。私……なんで、兄さんがいないときにこんなこと……)
ポタポタと落ちる涙が浴槽に溜まったお湯を揺らした。
*
浴室から出た美月はすぐに髪の毛を乾かすと、弓道の試合のときにするように頭の後ろに髪の毛を集めて団子状にまとめる。そうして、デニムに白いロングTシャツの私服に着替えると、間違えて兄の分も作ってしまった弁当箱をリビングのテーブルの上に置く。
弁当箱の横にはスマホを置き、昼食を食べながら「白無垢の恋唄」についてSNSを調べていた。
(二俣先生の言うように、投稿数がすごい増えている気がする)
ざっと画面を下にスクロールしていくが、件の句やその結果の投稿が切れる気配がないほど続いている。試しに何人か投稿者のアイコンをタップしてみると、住んでいる県はバラバラで噂はすでに自分たちの周りだけでなく広範囲に拡がっていることがわかった。
(でも、どうして? こんな、子どもみたいな噂なのに……)
何かをきっかけにしてSNSはすぐに拡がる。ただの噂程度ならすぐに消えてしまう情報だが、何十回、何百回、何千回と投稿が増えていくにつれてその情報が「事実」かどうかは関係なくなっていく。本気で信じている者、冗談で楽しんでいる者、悪意を持って拡げている者、流行りに乗る者──様々な思惑が混ざり合って個々の状況と関係なく爆発的に拡がっていく。まるで強力な伝染病のように。
(それに……あった、これだ)
一つの投稿が目に留まり、美月は動かしていた手を止めた。箸を掴むと玉子焼きに手を伸ばした。
〈白無垢の化物だって
なんか知らないけど、この唄危険じゃな
い?〉
食事を進めながら、次々と投稿を確認していく。
〈化物とかいるわけなくね?w〉
〈動画あるんだって
怖くて見てないけど
でも〉
〈私、冗談でやっちゃったんだけど…〉
〈なんか、これ試した友達から急に連絡来な
くなったんだけど
ちょっ、大丈夫だよね?〉
〈暗闇に行くと女が追っかけてくるらしいよ~
髪長くて白い着物みたいなの着た
白い着物がたぶん白無垢〉
〈全力疾走してるババアがいんの?笑〉
ある投稿が目に飛び込んできて、美月は箸を弁当箱の上に置いた。テーブルに置かれているウェットティッシュで手を拭くと、スマホを両手で持ち画面を注視する。
「動画だ」
「白無垢の女」とだけ書かれた投稿に動画が添付されていた。昨日見たときと同じように、動画が表示されている枠には黒い画面が映っているだけだった。
(二俣先生は悪質な悪戯だって言っていた。もちろん、そうだ。幽霊とか化物とか、そんなものがこの世界にいるはずない)
そう思う一方で、胸の奥にあるざわざわとした感触がまとわりついて離れることはなかった。いくら常識外れと思っても、馬鹿馬鹿しいと嘲笑っても喉の奥が詰まるような嫌な感じが消えてくれなかった。
一人でいることすら怖かった昔の感覚を思い出す。美月は唾を飲み込むと、指で画面をタップして動画を再生した。